横須賀製鉄所の建設と並行して、小栗上野介忠順は幕府海軍そのものの立て直しにも手をつけていました。その一端を示すのが、外国人を軍艦に乗せるという口実で、艦内の掃除と規律を一気に正させた一件です。栗本鋤雲は、これを「当時の愉快なりき」と回想しています。
軍艦に虫がわいていた
当時の幕府軍艦は、お世辞にも清潔とは言えない状態にありました。栗本鋤雲の『匏菴遺稿』には、こう記されています。
是迄我国所有の各軍艦は制度未だ整はず、将官懶惰を極め、所部の吏卒気随放埒にして節制無ければ、何れも不潔汚穢にして、漆聖剥落し、餃飯余羮の類所々堆を為し、奇臭鼻を撲つ
食べ残しがあちこちに積み上がり、異臭が鼻をつく。塗装は剥げ落ちている。そればかりか、朝陽丸・観光丸といった艦には得体の知れない虫がわいていました。「アンドロス」と呼ばれた一種の悪虱で、刺されると発疹を生じ、痒さは堪えがたい。しかも虫自体は細かすぎて目に見えません。
栗本らがフランス艦にたずねると、こういう答えが返ってきました。その虫はインド洋を航行する商船にはまれに生じることがあるが、軍艦には決して生じたことがなく、生じさせもしない。商船は雑多な荷を積むので生臭さが絶えないが、軍艦は毎日洗い掃くから発生しない。これはフランス艦だけでなく、どの国の軍艦も同じである――。
その旨を日本の軍艦に諭しても、艦将をはじめ頑として聞き入れませんでした。上司から訓令を出しても守られない。それが当時の幕府海軍でした。
「外国の公使を乗せる」という口実
軍艦奉行だった小栗は、ここで別の道をとります。訓練を受けたことのない武士たちにいくら命令を出しても動かない。しかし武士は、対外的な恥辱ということになれば命がけで動く。その呼吸を知っていたのです。
折よく、横須賀製鉄所の建設地を決めるため、フランス公使と水師提督、軍艦セミラミス号の船将らを案内する必要が生じていました。未開港の場所へ外国船で乗り入れることは禁じられていましたが、日本の軍艦に彼らを乗せて巡航するぶんには差し支えがない。小栗は順動丸をこの用に充て、全艦の乗組将兵に対し、近日中に外国軍艦の艦長たちが日本軍艦の艦内を視察したいとの申し出があるので、日本の名誉のため艦内を清掃せよとの訓令を発しました。外国の公使や提督を日本の軍艦に乗せるのは初めてのことであるから、よくよく慎んで嘲笑を招くことのないように、と命じたのです。
軍艦方の者は、一方では当惑し、一方では驚愕しました。そして期日までの昼夜を分かたず、掃洒粉飾に従事したと栗本は記しています。この一件を境に艦内の清掃が行き届くようになり、悪虱の跡は日本の軍艦から絶えました。阿部道山氏は、これを「小栗の奇智」と呼んでいます。
横須賀に持ち込まれた同じ思想
この軍艦巡航が行われたのと同じ頃、製鉄所の建設地は横須賀に確定しました。元治元年十二月下旬のことです。鉛錘を何度も投じて水深を確かめたうえで、景勝と要害を兼ね備え、フランスのツーロン造船所の地形によく似ているとして決定されました。ところがこの年の押し詰まった時期に、小栗は勘定奉行を罷免され、陸軍奉行並に移されています。
清潔の徹底という発想は、横須賀製鉄所の運営規則にそのまま引き継がれました。雇用関係細則には「清潔整頓」の一項が立てられています。
各製造局の日本人頭目は、午後五時の作業終了の後、持場の機械器具を清潔にさせる責任を負う
毎夕その局が不清潔な場合は、幹部職員によって譴責される
点呼で理由なく遅れた者はその日の仕事を与えず、三回に及べば解雇する
工員はすべて同じ作業服を着用し、頭目は袖端にガロンを着ける
夏は朝六時半、冬は朝七時半から作業を始め、十一時から午後一時まで昼休み、終業は冬夏とも五時。就業時間は緊急工事を除いて一日十時間と定められました。ただし休日は日本の習慣に従うものとされ、当時の日本の休みは日曜日ではなく一と六の日の「一六休日」でした。そのため、フランス人技師の側が日曜に出勤しなければならなかったのです。
命令が通らない相手をどう動かすか。小栗のやり方は、命令の中身ではなく、人が何に対して本気になるかを見定めるところから始まっていました。
典拠:阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年(栗本鋤雲『匏菴遺稿』を引く)/坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年
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