文久二年(1862)八月、江戸から京都へ向かう薩摩藩主の父・島津久光の行列が、神奈川の生麦村にさしかかったところで、騎馬のイギリス人四人と行き合わせました。一行のうち一人は婦人で、川崎大師へ参詣する途中だったと伝わります。激昂した従士が抜刀し、一人が斬られて死亡、二人が重傷を負い、残りは横浜へ逃げ帰りました。生麦事件です。大坪指方・穂積驚は、実際には行列を横切ったのではなく、下馬の礼を怠ったのが実情であったらしいと書いています。
町奉行の机の上に置かれた難事件
この年の小栗は、役職が目まぐるしく変わっていました。六月五日に勘定奉行勝手方となり、同じころ官途名を「上野介」と改め、閏八月二十五日にその勘定奉行勝手方を免じられて、同じ日付で江戸町奉行を命じられています。江戸の町方の裁判と警察を司るのが町奉行ですが、生麦事件は、就任したときすでに未解決のまま待っていた難事件でした。大坪指方・穂積驚はこう書いています。「世が世であれば、これは町奉行の管轄ではない。だが、相手は外国人であり、かてて加えて時勢が悪かった」。
当然おこるのは賠償金の支払問題です。イギリス代理公使セント・ジョン・ニール大佐の抗議は厳重を極め、他の列強も同時に強硬手段に出ようとしました。「またしても忠順は、大金の捻出に腐心しなくてはならない」――幕府で必要なだけの金策が、そのたびに小栗の双肩にのしかかっていた、というのが同書の見立てです。
松平春嶽邸で横井小楠と会う
大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』は、事件から間もない八月二十九日、小栗が越前藩主・松平春嶽の邸で生麦事件について協議したと記しています。同席したのは神奈川奉行の浅野伊賀守ら。そしてこの席には、当時越前藩の政治顧問だった横井小楠がいました。勝海舟や西郷隆盛を敬服させた当代屈指の論客と、幕閣の若い実務家との対面です。大坪指方・穂積驚『小栗上野介』は、この会見について「両者対面の一ときのことが、何にも記録されてない事が淋しい」と書いています。
小栗の役職はその後も動きます。十二月一日に町奉行を免じられて歩兵奉行となり、その五日後の十二月五日には勘定奉行勝手方を兼任しました。軍制改革と財政と外交案件を、同時に抱え込んだかたちです。
「これこそ最後の通牒」
年が明けた文久三年(1863)二月十九日、ニール大佐が「これこそ最後の通牒」として幕府に公文書を差し出します。外国奉行・松平石見守康英の赤坂の屋敷に翻訳者五人が夜に召集され、訳し終えたときにはすでに空が白んでいました。その五人のうちの一人が、外国方翻訳局にいた福沢諭吉です。要求の中身は『福翁自伝』に記されています。
幕府から十万ポンド 償金の支払い
薩摩藩から二万五千ポンド 別途の支払い
犯人の処刑 下手人を召し捕り、イギリス人の見ている前で刑に処すること
期限は二十日 回答がなければ実力行使
フランス公使ベルクールも同調し、戦端を開くときはイギリスとともに軍艦で品川沖を暴れ回る、と通告してきました。前年十二月には長州の高杉晋作らが品川御殿山のイギリス公使館を焼き打ちしており、それもニールの怒りを煽っていました。江戸市中は「いまに戦争が始まるに違いない」という評判でもちきりで、新銭座に住んでいた福沢は逃げ支度をはじめたほどです。償金を払うか払わないかの幕府の評議は決せず、期限は二十日、また十日と、次々に引き延ばされていきました。
五月九日、横浜での独断支払い
決着は唐突でした。文久三年五月九日、前日まで大病だと言って寝ていた老中・小笠原図書頭長行が、その朝ひょいと起きて軍艦に乗り、上方へ行くと称して品川沖を出ます。イギリスの砲艦が後をつけましたが、小笠原は本牧をまわらずに横浜へ入り、自分の独断で即刻、償金を払ってしまいました。十万ポンドは当時の相場でメキシコ弗四十万。その正銀をニールに渡して、ひとまず一段落となります。その翌日には、今度は長州で外国船砲撃事件が起こりました。
薩摩藩のほうは長引きます。坂本藤良氏によれば、薩摩は架空の人物を犯人に仕立てて逃げ、文久三年七月にはイギリス艦隊七隻が鹿児島を砲撃しました(薩英戦争)。薩摩藩が幕府から借り入れた金でイギリス公使に二万五千ポンドを支払ったのは、同年十一月一日のことです。もつれにもつれた生麦事件が一応の解決を見たのは、事件から一年三か月後でした。
口実もスキも与えない
この処理における小栗の働きについて、坂本藤良氏は「この解決も、小栗の手腕をまたねばならなかった」としたうえで、「小栗はイギリスに、それ以上の文句を言い、あるいは実力行使をする口実もスキも与えなかった」と書いています。対馬事件では、実力の裏づけを欠いた交渉が最後まで動かないことを現地で味わいました。生麦事件では逆に、相手に付け入る隙を与えないという一点に徹しています。
もっとも、幕府の懐は限界に近づいていました。この時期の将軍家茂の最初の上洛だけでも、費用は大判百六十三枚、金六十三万五千七百五十七両余、銀四千二百九十貫余に上っています。そこへ十万ポンドの償金と、薩摩への貸し付けが重なりました。小栗が歩兵奉行兼勘定奉行を免じられたのは、一橋慶喜への加増に反対した文久三年四月二十三日のことでした。
典拠:大坪指方・穂積驚『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会、昭和五十年(『福翁自伝』引用を含む)/坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年