福澤諭吉は天保五年、大坂堂島の中津藩蔵屋敷で生まれました。豊前中津藩士・福澤百助の二男です。文政十年生まれの小栗上野介忠順より七つ年下にあたります。万延元年の遣米使節では、二十七歳で咸臨丸の総裁・軍艦奉行木村摂津守芥舟の従者として太平洋を渡りました。
咸臨丸は、幕府が外交多事のさなかにオランダへ注文した軍艦二隻のうちの一隻で、安政四年八月五日に長崎へ着いています。オランダ本国での名は「日本号」。長さ百六十三フィート、幅二十四フィート、百馬力、蒸気螺旋仕掛けの三檣木造船でした。この船に木村芥舟を司令官、勝海舟を船将として、福澤ら百十五名が乗り組みます。使節団本体が乗ったアメリカ軍艦ポーハタン号に比べれば、はるかに小さな船でした。
木村摂津守が語った船中の福澤
航海中の様子について、木村摂津守自身の談話が残っています。
勝は大閉口でキャビンの中に寝たきり船暈を起したので、大将なくして船をやる騒ぎであった。殊に藩から従僕名義で乗組んだ連中など皆へトへトになつて役に立たぬ中に、独り福澤のみ平然として船に酔はず、私の介抱をして飲食衣服の世話をなし熱心に働いてゐたのには感心した
木村はさらに、サンフランシスコ上陸後も福澤がこまめに働き、自分が風邪をひいたときは付き添いきりで看病し、帰帆の際には気を利かせて土産を買い調えてくれたので帰朝後に面目を施した、と続けています(阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』)。
サンフランシスコ入港の際には祝砲をめぐる一件もありました。勝が「到底無理だからやめろ。なまじ祝砲など撃って、やりそこなったらみっともない」と言うのに対し、士官の佐々倉桐太郎が「いや必ず撃てます」と反論。勝は「ばかを言え。できたらおれの首をやる」と言い放ちましたが、祝砲は見事に撃てました。この一件は『福翁自伝』に記されています(坂本藤良『小栗上野介の生涯』)。福澤が木村を尊敬し、木村を軽んじる勝に不快の念をいだいていたことが、のちの『瘠我慢の説』につながっていきます。
小栗が福澤に託そうとした新聞
小栗上野介は、福澤を将来の日本のために働くべき人物として早くから見ていました。ニューヨークで新聞社を訪問した経験は忠順に強い印象を残し、帰国後、彼は日本初の西洋式新聞の発行を計画します。そしてその担い手として、福澤諭吉を充てようと考えました。
小栗は当時福沢諭吉をして、新聞を発行せしむる計画であったが、幕府内これに耳を傾くるものなく、遂にその意を達し得なかった(『日本新聞発達史』)
もし実現していれば幕末日本の世論は大きく変わっていたろうと、忠順自身がのちに述懐したと伝わります。阿部道山氏は、もし明治まで小栗が生きていたなら、福澤諭吉・福地源一郎・栗本鋤雲・原敬・犬養毅といった人物を率いて文化日本に一異彩を放っただろう、その死は日本にとって一大損失であった、と書いています。
榎本武揚の助命に動いた福澤
榎本武揚は箱館降伏ののち、死罪と決まりかけていました。このとき心から助命に動いたのが福澤諭吉です。福澤は榎本の老母に代わって命乞い嘆願書の案文を起草し、さらに黒田清隆に向かって助命を勧告しました。黒田はこれに動かされて官軍内で助命運動を行い、それが功を奏します。このいきさつは『福翁自伝』中の雑記に詳しく記されています。
ところが福澤は、その榎本と勝海舟の明治以後の身の処し方を、日本の士道の点から遺憾千万であると論じました。『瘠我慢の説』です。草稿は明治十年に書かれ、福澤はこれを堂々と勝本人に送りつけています。
小生の本心は漫りに他を攻撃して楽しむものにあらず、唯多年来、心に釈然たらざるものを記して輿論に質し、天下後世の為めにせんとするまでの事なれば(福澤から勝への二月五日付書簡)
翌二月六日、勝はこう答えました。
行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我れに与らず我れに関せずと存じ候
福澤はこの草稿を、それから二十四年間ふところに納めたままにします。公表したのは明治三十四年、勝の没後のことでした。存命中に攻撃するに忍びなかったのだろう、と阿部道山氏は見ています。
遣米使節が生んだ三人
阿部道山氏は、井伊直弼が企画したこの遣米使節こそ日本の新文化の端緒であり、その副産物として小栗上野介・勝海舟・福澤諭吉という三人を世に出したのだ、と述べています。維新史を書く者が勝と福澤の二人だけを記して小栗を除外するのは「沙汰の限り」だと憤っています。勝も福澤も、万延元年のあの航海では小栗の下僚として海を渡ったのだ、という見方です。
小栗上野介は慶応四年、四十二歳で倒れました。勝海舟は明治三十二年に七十七歳で天寿を全うし、福澤諭吉は慶應義塾を興して教育と言論から近代日本を支えました。榎本武揚は助命ののち新政府に登用され、外交官・大臣として重きをなしています。同じ万延元年の使節という枠組みの中にいた人々が、それぞれ違う形で明治を生きました。
典拠:阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年/坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年
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