原保太郎は、慶応四年閏四月、権田村で小栗上野介を捕らえ、その処刑を指揮した東山道先鋒総督府の監軍です。丹波篠山の貧しい武士の家に生まれ、剣術に秀でて京都で撃剣の師範をしていたところ、幕末の動乱のなかで岩倉具視の部下となり、岩倉の子・具定を総督とする東山道総督軍に従って東へ進みました。権田村に向かったとき、まだ二十二歳だったと本人が語っています。
板橋の本陣から権田へ
原が権田村へ向かった経緯は、本人の言葉として二つの記録に残っています。ひとつは『館林史誌』に収められた、郷土史家・真下菊五郎への談話です。
四月中旬まで我等は板橋に滞在はしていたが、その間に上州権田の領主小栗上野介が、古屋等一行を呼んで、総督の本営たる板橋をつくという報知があったので、大急ぎ西上して小栗を召捕れという総督府からの命令で、私と豊永貫一郎と共に、監察という名称で、高崎付近の藩兵を幾分か連れて権田に行って、小栗上野介を詰問し、部下に命じて打ち首にさせた
もうひとつは、後年の面談で語られた回想です。岩倉が板橋に本陣を据えていたころ、「上州で上野介が大砲を持って本陣に対抗する」という情報がしきりに入り、岩倉は原を呼んで「速く上州権田に行って打て」と命じたといいます。原は自分を「総督の側人」と呼び、こう付け加えました。「わしら(総督本陣側)の方には、大砲など持っていなかった。それに小栗方には大砲があると聞いては、ぞっとしたね」。
小栗が権田村に運び込んでいた大砲は二門。実弾はありませんでした。江戸屋敷に据え置いて愛玩していたものを持ち帰っただけで、陣地と呼ばれたものも永住の目的で建てた居宅にすぎません。高崎・安中・吉井の三藩は追捕状の条項と照らして取り調べ、逆謀の跡なしと判断して一度は引き上げています。それを「手ぬるい」と怒り、三藩をも討伐すると脅して再出兵させたのが、原と豊永貫一郎でした。閏四月四日の夕、両名は高崎城下に入って出兵を達し、藩兵は夜中に繰り出され、五日に三ノ倉村で軍議、半隊を東善寺の背後の山手へ、半隊を表門へ回して寺を包囲しました。
取り調べをしなかった理由
昭和七年の暮れ、小栗家の菩提寺である普門院の住職・阿部道山氏は、平凡社の百科事典に「慶応四年四月六日、采地群馬県権田村烏川畔において、豊永貫一郎・原保太郎両名のため斬首せられた」とあるのを見て、年鑑を引きました。原保太郎の名は、貴族院の勅選議員として、神奈川県二階堂在住のまま載っていました。斬った当人が生きていたのです。
十二月二十三日、阿部氏は長い手紙を書き、渡米の際に米艦ポーハタン号上で撮影された小栗の全身写真を同封しました。二十六日に届いた毛筆の返書には、震える字でこう記されていました。「忘れぬ、たしかに上野介殿の写真である」。
昭和八年一月四日、阿部氏は鎌倉の原邸を訪ねます。そこで交わされた問答が、処刑当日の細部を今日に伝えています。原は東善寺の奥の部屋にいた小栗に「貴殿等を捕縛しにきた」と告げ、小栗は「うん」と答えたのみ。縄はかけませんでした。「昨日までの顕位顕職の人物じゃ。縛しはせん。籠に乗せた」。従者三名は縛ったと記憶している、と付け加えています。
なぜ一度の訊問もしなかったのか、と問われた原は、こう答えました。
吾々の如き小吏輩がいうた所でいたし方もないと思つたから云はなかつた
処刑の場について。従者三名を先に斬ったあと最後に小栗を斬ったこと、遺言を問うと一度は「ない」と答え、しばらく目を閉じたのち再び目を開けて「一言ある」と言い、「老母と妻を逃した、よろしく寛典を乞う」と述べたこと。首が直立していて斬りにくく、棒で腰を突いたところ、小栗が「無礼者め!」と大声を上げて睨みつけ、それから自ら首を下げたこと。原は「心のくるいであろう」と言いながら、三太刀かかったと告白しています。
流石、一代の英傑なり。最期の従容自若たる、實に武人の鑑ぶり。忘るる不能。気の毒の至りなり
悪いと思わないのか、と詰め寄られた原は「悪いことをしたとは思わん。然し、気の毒なことをしたと思つとる」と答えています。権田の小栗の墓は、大音龍太郎に命じて建てさせたものだ、とも語りました。
誰が刃を下ろしたのか
実際に刀を振り下ろした人物については、古くから説が分かれます。『倉田村郷土誌』は高崎藩士・笠原宣善が斬り、原と豊永は立会人だったと記しますが、この人物は権田村へ出兵した高崎藩士の名簿に見当たりません。ほかに高崎藩足軽・小用喜一郎とする説、安中藩士・浅田五郎作とする説があります。小用喜一郎は、翌七日に高崎で処刑された又一主従の斬首にあたった人物と混同されたものと見られています。
原自身の証言も一様ではありません。真下菊五郎には「部下に命じて打ち首にさせた。全く自分の見ている処で切らせた」と語り、阿部氏には自分が三太刀で斬ったと語っています。いずれにせよ、取り調べも判決文もないまま処刑を命じた指揮者が原であったことは、どの説をとっても動きません。
なお、小栗の縁者である蜷川新が、斬ったのが原だと知ったのは大正八年(1919)の秋のことでした。第一次世界大戦後、欧州の赤十字を歴訪して帰国した蜷川のために日本赤十字社が歓迎会を開いた席で、社長の石黒忠悳が小声で「今、常議員の原保太郎に、今日の主賓の蜷川博士は小栗上野の義理の甥にあたる人だよと語ってやった。原は非常にびっくりしておったよ」と告げたのです。官軍側はその事実を長く伏せていた、と蜷川は書いています。
横須賀を見た日
原はその後、明治四年に岩倉具視の随員として欧米巡遊に加わります。その出発にあたって横須賀に立ち寄った原は、そこに立派な造船所ができあがっているのを見ました。自国の手で軍艦を造る場所だと聞かされ、さらにそれを創めたのが小栗だと知らされたとき、「小栗氏はどえらい人物であった」と思った、と本人が語っています。処刑から三年後のことでした。
帰朝後は山口県知事を長く務め、明治二十七年に退いて北海道庁長官。二十九年に退官して貴族院の勅選議員となり、日本赤十字社の常議員も務めました。晩年の号は「無花」。「三界に家なし」という意味だと、自ら説いています。
阿部氏が訪ねた日、話が尽きたあとで、原は菩提寺の住職に追善の経を上げてくれるよう頼みました。耳が遠い老人のすぐそばで読経が始まり、途中で原の両頬を涙が伝います。経が終わると「ああよかった、これでよかった」と声を上げ、辞去する阿部氏に、花と線香を墓に供えてくれと頼んで布施を差し出したと記録されています。
典拠:阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年/小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』/大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年/坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年
→ 主君の首を守った武笠銀介 / 三ノ倉と水沼河原 / 蜷川新と名誉回復