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「上野介」という名を選んだ理由

忠臣蔵の吉良上野介を連想させる名を、小栗はあえて選んだと伝わります。

文久二年(1862)、小栗はそれまでの受領名「豊後守」を改め、「上野介」と名乗ります。以後、死ぬまでこの名で通し、今日に至るまで「小栗上野介」としてこの人物は記憶されることになりました。

「豊後守」の三年間

受領名は勝手に名乗れるものではありません。大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』によれば、小栗が従五位下に叙され豊後守に任じられたのは安政六年(1859)十一月二十一日、目付就任の二ヶ月後で、遣米使節を命じられる十日前のことでした。阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』も「諸大夫に昇り豊後守に敘爵した」と記しています。使節の一員として海を渡ったのはこの名で、条約批准書の交換にあたっての署名も「小栗豊後守」でした。アメリカの新聞は、彼の名を Oguro-Bungo-Nokami と書いています。

なお、小栗家当主の通称は代々「又一」でした。四代・忠政が十三歳で家康の小姓となり、長じて合戦のたびに軍の先頭に立ったことから「又一」の名を賜り、以後、当主の通称になったと大坪元治氏の家系は伝えています。小栗も安政二年(1855)の家督相続のときに又一と改名していますが、阿部道山氏は、文久以後は又一を用いず専ら上野介と称した、その理由は「閣老に同名の仁あるをさけるため」と記録にある、と書いています。

改名の時期

改名がいつかについては、参考書のあいだで記述に幅があります。大坪元治氏の略年譜は文久二年六月五日、勘定奉行勝手方に任じられたその日に「名を上野介と改めらる」とし、坂本藤良『小栗上野介の生涯』は「この年の五月ごろ」とします。大坪指方・穂積驚『小栗上野介』は「任官の年月日は不明だが」と断ったうえで、この改名にまつわる挿話を伝えています。

「上野介」を名乗った三人

周囲が難色を示したのは、縁起の問題でした。大坪指方・穂積驚『小栗上野介』は、上野介の官位を許された者のなかに、後世まで消えない「不吉」の刻印を捺された者が三人あったと書いています。本多正純、堀田正信、吉良義央です。

  • 本多正純 家康・秀忠の二代に仕え、元和五年(1619)秋に下野国宇都宮十五万五千石を領するまでに出世したが、わずか三年後に秀忠の怒りを買って封を削られる。出羽国由利に配流ののち大沢、横手と移され、佐竹義宣預かりの幽閉のうちに病没。享年七十三。将軍暗殺用の釣天井を造ったという俗説まで流れたが、真相は土井利勝との権勢争いだったらしい、と同書は書いています。

  • 堀田正信 下総国佐倉十三万石の領主。「十三万石は返上します、どうか旗本たちの苦しい生活を、これで助けて下さい」という上申書を残し、家臣の誰にも知らせず単独で領地へ帰ってしまった。老中筆頭・松平信綱に「狂人沙汰、としか言いようがない」と決めつけられ、信州飯田、若狭小浜、阿波徳島と配所を転々とした末、延宝八年(1680)五月に鋏で自決。四十九歳。

  • 吉良義央 赤穂浪士のため非業の最期を遂げた、忠臣蔵の「吉良上野介」。

いずれも天命を全うできなかった――だから縁起が悪い、なろうことなら辞退してほしい。側近がそう言いたくなるのも無理はありませんでした。

押し通した

それでも小栗は改めませんでした。坂本藤良氏は「彼は笑って応じなかったという。一説には『国事のため生命を失うなら、男子の本懐』と答えたともいう」と書き、名前などにこだわらない持前の合理主義の表れではないかと見ています。大坪指方・穂積驚『小栗上野介』は、側近の心配に対して小栗が頬に微笑を乗せたまま次のように応じた、と伝えています。

案ずることはない。悪い例なら、良い例、めでたい例に置き換えよう。それも又、私に課せられた仕事であるやも知れぬ

大坪元治氏の略年譜も、本多上野・吉良上野はいずれも平凡な人物ではなかったが天命を全うできず、その名は忌まれた、しかし小栗はそれを誇りとしたと伝わる、と記しています。

ちなみに小栗家の采地二千七百石には、上野国群馬郡権田村三七五石、下有田村一七〇石、与六分村八八石などが含まれていました。遣米使節の功で万延元年(1860)十月に加増された二〇〇石も、上野国多野郡の森村・小林村です。のちに一家を挙げて隠棲することになる権田村も、この上野国の采地でした。ただし、それが改名と結びつくと述べた記録は残っていません。

結果として「小栗上野介」の名は定着しました。豊後守時代の遣米使節や対馬事件を語る文章でも、後世はたいてい「上野介」と呼び習わしています。

典拠:大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年/大坪指方・穂積驚『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会、昭和五十年/坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年

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