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立石斧次郎「トミー」― 全米を熱狂させた従者

遣米使節に従者として随行し、若く陽気な人柄でアメリカ中の人気者になったと伝わる人物です。

立石斧次郎は、万延元年(1860)の遣米使節に通訳見習として随行した若者です。数え十七歳。七十七人のサムライを乗せた一行のなかで最年少に近く、アメリカでは「トミー」の愛称で呼ばれて、全米を熱狂させました。

養父に頼み込んで一行に加わった十七歳

斧次郎の養父は、オランダ語通訳の立石得十郎長久です。使節団の通訳は、正式には名村五八郎元度・立石得十郎長久が務め、斧次郎はその見習という立場でした。坂本藤良氏によれば、斧次郎は海外の事情と英語を学びたいと切望して養父に頼み込み、許されて小栗豊後守忠順の従者に加えられたといいます。役目で選ばれたのではなく、自分から志願して太平洋を渡った若者だったわけです。

「トミー」という愛称の由来も、養父との関係にあります。斧次郎の幼名は為八で、得十郎はふだん彼を「タメ!」と呼んでいました。その響きを聞いたアメリカ海軍の士官たちが「トミー」と呼びならわし、それがそのまま定着したのです。

小栗の従者には、意識してか若い者が多く集められていました。斧次郎のほかに、十七歳の三村慶三郎、十九歳の福島義言と三好権三が名を連ねています。最年長の木村鉄太でも三十一歳でした。

ポーハタン号の船中から、すでに人気者だった

斧次郎は愛嬌があり、英会話にことのほか熱心でした。習いおぼえた言葉をすぐに使って片言でアメリカ人に話しかけるので、太平洋を渡るポーハタン号の船中ですでに、アメリカ人士官や水夫と打ち解けていたと伝わります。

上陸してからの人気の上がり方は、当時の記録がいくつも伝えています。ワシントンでは、上流婦人たちのあいだに斧次郎が近づくと「あたりはシンと静まりかえった」といわれました。ニューヨークのブロードウェーでは、日本使節団を歓迎する人出が史上最高となりましたが、斧次郎はパレードの馬車の上からアメリカ人女性に貰ったハンカチを振ってみせ、群衆が大歓声をあげています。

本人もこの空気を楽しんでいたようで、『ニューヨーク・タイムズ』紙の記者には、

髪をのばしてアメリカ海軍士官学校に入り、アメリカ娘を女房にしたい

と語り、意中の「候補者」の写真まで見せたと記録されています。はしゃぎ過ぎを小栗にたしなめられたことが、かえって新聞の大きな話題になった――という一件については、年譜の記事で詳しく扱っています。

「トミー・ポルカ」――一八六〇年の楽譜

この熱狂の結晶が、「トミー・ポルカ」という舞踏曲です。印刷は一八六〇年。表紙には、羽織袴で小刀を腰にさし、大刀を手に持って椅子に腰かけた若いサムライが描かれています。表題の下には、こう添えられていました。

Dedicated to TATEISH ONOGERO (or TOMMY) of the JAPANESE EMBASSY
――「日本使節団員、立石斧次郎こと、トミーに捧ぐ」

歌詞は、街ゆく奥さんもお嬢さんも夢中で周りに寄ってくる、魅力あふれた小さな紳士、その名はトミー――と続きます。アメリカ社交界はこの曲を演奏し、歌い、かつ踊りました。南北戦争前夜の張りつめた空気のなかで訪れた、最後の楽しいひとときでもありました。

この曲が全米で流行した事実は、『ジャパン・タイムズ』紙の記者だった村山有氏が発見して歌詞を紹介し、副使・村垣淡路守の曾孫にあたる服部逸郎氏の『7人の侍アメリカへ行く』(講談社)でも取り上げられました。ただし楽譜そのものは百数十年のあいだ行方が知れず、お二人とも実物を見ないまま世を去っています。楽譜はのちにポール・ブルーム氏によって見出され、日本で最初に弾いたのはピアニストの大川みどりさんでした。

帰路の船、そして帰国後

帰りの航海でも、斧次郎らしい逸話が残っています。ワシントンで会った少女の写真を持っていて、いつも眺めていたのですが、同行のアメリカ人新聞記者にあまりにたびたび見せるので、航海が終わるころにはだんだんあきれられるようになった、というのです。

帰国後の斧次郎がどのような道を歩んだかを記した史料は、見あたりません。ただ、思いがけない形で足跡が残っています。のちに三井物産の初代社長となる益田孝が、青年時代に立石斧次郎から英語を習っているのです。

坂本藤良氏は、この一点に不思議な縁を見ています。益田はその英語にもとづく交渉力によって三野村利左衛門に認められました。その三野村は、小栗のおかげで三井の大番頭となった人物です。そして三野村は、小栗が創設した日本最初の株式会社「兵庫商社」に学んで三井物産を創立し、その初代社長に益田を迎えました。小栗の従者としてアメリカに渡った少年が持ち帰った英語が、めぐりめぐって小栗の蒔いた種の実を結ばせる側に回っていた――当人たちはそんなつながりを知りはしなかった、と坂本氏は書いています。

典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/顕彰会会誌『たつなみ』

→ 従者トミーの人気と誤報事件

→ 三野村利左衛門との出会い

→ 日本最初の株式会社、兵庫商社の設立