咸臨丸の太平洋横断は、日本人の壮挙として長く語り継がれてきました。けれども同じ船に乗っていた人びとの記録を読むと、艦長格だった勝海舟の姿は、後世に広まった英雄像とはずいぶん違っています。小栗が乗ったポーハタン号とは別の船の話ですが、サンフランシスコで両者は再会します。
出港の翌日から全員が船酔い
万延元年(一八六〇年)の航海は、初めから荒れました。出港翌日の二月二十日夕方から嵐にあい、二十一日にはますます暴風雨がひどくなって三日間続きます。全航海三八日間のうち、天気がよかったのは四、五日しかありませんでした。同乗したアメリカ海軍のジョン・M・ブルック大尉の『咸臨丸航海日記』によれば、日本人は出港の翌日には全員が船酔いで参ってしまい、勝も自室に閉じこもったきりで、指揮をするどころではなかったといいます。
嵐のあいだ、甲板で働けたのはアメリカ人の士官と水兵、そして日本人では中浜万次郎・小野友五郎・浜口興右衛門の三人だけでした。全航海の三分の二以上はブルックが指揮をとっています。坂本藤良氏は、もしブルックらがいなければ咸臨丸は難破していた可能性がある、と書いています。
そのブルックらを乗船させたのは、軍艦奉行として乗り組んでいた木村喜毅(摂津守)の決断でした。勝はアメリカ人を乗せることに激しく反対しています。手伝ってもらったと思われるのを嫌ったのです。木村のほうは、率直にブルックへの感謝を紀行文に記しました。
人物極めて温良にして航海の術に達せり。此人の此行に従ふは、余に於て尤大幸とするところなり
木村喜毅『紀行』
木村と勝は、帰路のためにもアメリカ人水夫八人を雇いたいとブルックに申し入れ、実際に五人が同乗しています。
「どうぞご勝手に」
木村は、勝が航海中に乗組員とのあいだで起こしたいくつかの悶着を、身分上の不満のせいだろうと推測しています。
咸臨丸の艦長にしたのも、どうでも行きたいというので私が計らったのですが、何分、身分を上げることもできず、それで八つ当たりです
木村喜毅の談話(坂本藤良『小栗上野介の生涯』所引)
勝は船室にこもったきり出てこない。それでも艦長として立てなければならないので、司令官の木村がわざわざ部屋まで出向いて相談しようとすると、勝はふてくされて「どうぞご勝手に」と言うばかりだったといいます。太平洋のまんなかで「おれはこれから帰るからバッテーラを下ろしてくれ」と水夫に命じた、という話まで残っています。
旗印事件 ― 隠された勝の紋所
サンフランシスコ入港の段になって、二つの事件が起こりました。ひとつが旗印事件です。日本人の乗組士官たちは、軍艦奉行である木村の紋所を旗印に掲げて入港すると決めました。ところが勝がこれを承知しない。自分の旗印でないことが不満だったのです。
士官たちがブルックらに西洋の慣行をたずねると、答えは「当然、最高司令官の旗をかかげるべきだ」。これを聞いて喜んだ士官連中は、勝の旗印をどこかへ隠してしまったといいます。つまりこの一件は、勝と外国人のあいだの話ではなく、勝と木村――艦長と司令官――のあいだの、船上の序列をめぐる悶着でした。
祝砲事件 ― 「できたらおれの首をやる」
もうひとつが祝砲事件。これは福沢諭吉が『福翁自伝』に書き残しています。
勝麟太郎という人はしごく船に弱い人で、航海中は病人同様自分の部屋の外に出ることはできなかったが、着港となれば指揮官のことだから万端指図するうちに祝砲の話が出た
福沢諭吉『福翁自伝』
勝は「到底無理だから、やめろ。なまじ祝砲など撃って、やりそこなったらみっともない」と言います。ところが士官のひとり佐々倉桐太郎が「いや必ず撃てます」と応じた。勝はかっとなって「ばかを言え。できたらおれの首をやる」と言い放ちました。祝砲は見事に撃てました。
木村は紀行文のなかで、日本の役人はすべて上司に伺いを立てるのがしきたりだが、外国では予想外のことが起こるのだからいちいち本国に問い合わせるわけにはいかない、祝砲がその例で自分の独断でやらせて成功した、と書いています。
たとえば祝砲の如きは、(幕閣の意見などを)亳も顧慮する処なく、彼国の礼節に応じなし得し事、大に都合よかりしなり
木村喜毅『紀行』
木村は幼いころから秀才として知られ、二五歳で長崎目付をつとめた、人の意見をよく聞くたちの人物でした。福沢はその木村を尊敬していたので、木村を軽んじる勝に対しては内心穏やかでなかったようです。それが後年の『瘦我慢の説』で噴き出します。
サンフランシスコでの一夜
ポーハタン号がサンフランシスコに着いたのは一八六〇年三月二十日(邦暦三月八日)。三月三十日、小栗ら三使節と森田清行はさっそく木村の宿舎を訪ねました。木村は一行に風呂をすすめ、とっておきの洋酒を出します。深夜まで飲み、語り、小栗と森田は酔ってそのまま木村のところに泊まってしまいました。咸臨丸の船上で何があったかを、小栗はこの夜のうちに聞かされていたのかもしれません。
典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年(ブルック『咸臨丸航海日記』、木村喜毅『紀行』、福沢諭吉『福翁自伝』を所引)
→ 咸臨丸の「神話」を検証する → 木村摂津守喜毅 → 勝海舟