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盲学校・ろう学校、福祉国家アメリカへの驚き

使節団の見学先は、軍艦や工廠だけではありませんでした。

使節団の見学先は、軍艦や工廠、造幣局といった国家の威信を示す施設ばかりではありませんでした。盲学校・ろう学校・孤児院・病院といった、市井の弱者を支える施設も見学先に含まれていたことが、航海日記から分かっています。

驚きをもって記された福祉施設

目の不自由な子どもたちのための学校や、耳の不自由な子どもたちのための学校を見学した使節団は、そうした施設が国や地域社会の手で整えられていることに感心したという記録を残しています。孤児院や病院についても同様で、身寄りのない子どもや病人が公的な仕組みのなかで保護されている様子は、当時の日本にはなかった発想でした。

当時の日本にも寺社や篤志家による救済の慣行はありましたが、専門の教育を施す学校という形で盲人やろう者を受け入れる制度は整っていませんでした。目や耳に不自由を抱える人が、健常者と同じように読み書きや職業技能を学べる場が公的に用意されている――この光景そのものが、使節団にとって一つの驚きだったと考えられます。

幕府がこの時代に整えていたのは、軍制改革や製鉄所建設といった、国力そのものを底上げする仕組みでした。一方で使節団が異国で目にした福祉の仕組みは、国力とはまた別の、社会の成熟度を測る物差しだったといえます。目付として一行の記録全体に目を配る立場にあった小栗にとっても、こうした見学は単なる物見遊山ではなく、近代国家のかたちを考えるうえでの材料の一つになったはずです。

帰国後の小栗は、横須賀製鉄所での定時労働・日曜休日・月給制といった、働く人の生活に関わる仕組みづくりにも力を注ぎました。異国で見た福祉や社会制度への関心が、そうした発想の底流にあったと考えても、決して的外れではないでしょう。

軍艦や工場ばかりに目を奪われがちな遣米使節の記録のなかで、こうした福祉施設の見学が航海日記にきちんと書き留められていること自体、使節団の見聞の幅の広さを示しています。国力の強さと、社会の弱者に向けるまなざしの両方に目を配っていたことが、この短い記述から伝わってきます。

「仕組み」を書き留めた従者たち

使節団が施設だけでなく制度そのものに関心を向けていたことは、随行者の記録からもうかがえます。小栗の従者はおおむね若く、最年少のトミーこと立石斧次郎のほか、一七歳の三村慶三郎、一九歳の福島義言と三好権三がいました。そのなかで三一歳だった木村鉄太は、おそらく小栗の命によるものでしょう、克明に記録をつけています。

木村鉄太が作った一覧表のひとつが、ポーハタン号のアメリカ人乗組員の職位と給料の表でした。坂本藤良氏によれば、彼は船員の職位が明確で、責任と権限の分野がはっきり分かれていることに注目し、さらにアメリカには年俸・月給・日給という三つの支払い方があることを知って面白く思った、と書き留めています。艦長から楽人、火夫にいたるまでの職名と金額が並ぶこの表は、船の強さではなく、人を働かせる仕組みを写し取ろうとした記録です。

サンフランシスコでも同じことが起きています。上陸して小栗が最初に行ったのは造幣局の視察でした。同行した益頭駿次郎は、銀貨や銅貨に刻印する機械が一分間に七二個も仕上げる速さに感心したと記し、森田清行は『亜行日記』に所在・貨幣の種類・製造工程を詳述したうえで、「右宝貨局(貨幣製造工場)凡て人力を費さず、蒸気器械を用ひ、水は革製の(ポンプ)にて、二層三層四層の楼上へひき、火を用ゆるには凡てガスより取る。便利迅速いはん方なし」と書きました。機械そのものより、人力を使わずに水と火を建物全体に回す「段取り」のほうに目が向いています。

木村鉄太の給料表も、森田の工場記述も、見た物の珍しさではなく、それを動かしている決まりごとを写し取ろうとした記録です。使節団の関心が社会の仕組みに向いていたことは、こうした断片からも確かめられます。

典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年