慶応四年(1868)正月三日に始まった鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れると、将軍・徳川慶喜は大坂城を脱し、開陽丸で海路江戸へ戻ります。品川沖に入ったのは正月十一日の夕方、浜御殿に上陸したのが十二日の早朝でした。その出迎えに、小栗も勝海舟も駆けつけています。
慶喜が城に戻ったのは十二日の夜十時過ぎ。その夜十一時、役人一同が芙蓉の間に召し出されました。将軍からは「大事変起り当家危急存亡の際なれば、何れも隔意無く意見を申し述べよ」との言葉があったと伝わります。議論は紛然とし、泣く者、怒る者、わめく者が入り乱れて深更に及びました。そのあいだ、小栗ひとりは感情を面に出さなかったといいます。
十六時間の評議
小栗自身の日記は、翌日をこう記すだけです。
十三日 戌 天気能/一、五ツ時過登城、夜八ツ時退出致ス
朝五時すぎに登城し、退出したのは翌日の午前二時。ほとんど寝ないまま再び登城し、延々十六時間の議論に臨んでいます。『倉渕村誌』は、この日将軍が在城の大名旗本を大広間に集めて大評定を開き、主戦論と恭順論の二つに分かれて夜になってもまとまらなかった、と記しています。
この席に集まった重役たちは、誰一人として相手を官軍とは思っていませんでした。薩長の私兵と心得ていたのです。ですから多数は主戦論でした。ただし、堂々と論陣を張って慶喜に迫る者はいません。そこへ膝を進めたのが小栗でした。小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』は、東久世の遺談「江戸城会議」から次の一節を引いています。
色黒くあばたの小男、余り風采は揚がらないが、眼光烱々として人を射し、その一文字に結んだ唇が一度開くと見るや、音吐朗々、論理また整然、主戦の大儀を説いて上様に迫ってゆく、これには流石の慶喜公もタジタジとなった
その主張は、気合いだけのものではありませんでした。東征軍は三万を越えまい。ならば箱根の関門を開いて官軍をやすやすと江戸へ入れ、そのうえで箱根を閉じ、東山道の木曾路も塞いで袋の鼠にする。軍艦の半分で駿河を扼し、残る半分で摂海を衝けば、関東の諸侯はおおむね徳川の味方になる――具体的な作戦をともなう献策でした。
袴の裾を握る
大坂にいたときから恭順を心に決めていた慶喜は、席を立って奥へ入ろうとします。小栗はその裾を握って離しませんでした。権田村の塚越真一家に伝わる文書は、この場面をこう書き留めています。
彼は慶喜の東帰するや直に入て主戦を勧めぬ。痛言激論切諫して退かず。慶喜立て内に入らんとするや彼は進んで其の裾を握り強弁して猶放さじりしと云う。彼は遂に此座に於て最も厳急なる免職の命を受けたりしなり。幕府二百六十年間将軍の直語に由て職を免ぜられしものは唯彼のみ
将軍が自分の口で直接に職を解く――徳川三百年を通じて、この例は小栗ひとりだったと言われます。
いったんは小栗に論じつめられて戦を決意しかけたものの、鳥羽・伏見のようにまた負ければ今度こそ命が危ない。そう考えると心細くなり、慶喜の決心はふたたび鈍った。そして小栗を免職して恭順へ逆転した――「江戸城会議」はそう説明しています。
淡々とした日記
翌十四日は雪でした。日記には「例刻早メ登城、夜七ツ時分退出ス」とあるだけです。そして正月十五日、正式の辞令が下ります。
十五日 子 天気能/一、例刻登城致候処、昼後に相成、只今御用之儀候間西丸江可罷出旨之御剪紙、周防守殿御渡被成、尤着替に不及旨に付、其段同役江吹聴に及び御席江相廻り候処、於芙蓉間御役御免、勤仕並被仰付候旨、酒井雅楽頭被仰渡、夕七ツ半時過退出致ス/一、右に付一座并親類等江為通知出ス
剪紙(切った紙に書かれた辞令)を松平周防守から渡され、芙蓉の間で酒井雅楽頭から罷免を言い渡される。それだけを淡々と書き、感想はひとことも記していません。『続徳川実記』の正月十五日の条にも「勘定奉行 陸軍奉行並 兼帯 小栗上野介 御剪紙」とあります。『小栗日記』の編者・本多夏彦氏は、この日の記事も「平々淡々と表面の事しか筆にして居ない」と評しました。
この日記は、慶応四年正月一日から閏四月一日までの四ヶ月を小栗が自筆で書いたもので、のちに渋川の後藤家に伝わりました。後藤家は渋川宿の問屋を務めた家で、小栗処刑のあと総督府巡察使・大音龍太郎の命により小栗家の財産没収・処分にあたり、そのときこの日記を手に入れたと伝わります。
罷免から十三日後の正月二十八日、小栗は知行所である上州権田村への土着願いを進達し、翌二十九日に許されました。江戸を発つのは二月二十八日のことです。
典拠:『倉渕村誌』(権田・塚越真一家文書、『小栗日記』引用)/小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』(東久世の遺談「江戸城会議」引用)/群馬県史料集第七巻『小栗日記』本多夏彦編