慶応四年(1868)正月十五日、勘定奉行兼陸軍奉行並を免ぜられ、勤仕並寄合となった小栗忠順は、身の振り方を短いあいだに定めていきます。まず正月十九日、用人の武笠祐左衛門を遣わして、代々の菩提所である大成村(現・埼玉県深谷市)の普門院へ、四代・又一忠政の遺品と金五十両を届けさせました。伝来の槍や武具もここに納めています。
正月二十八日、土着願書を差し出す
そして正月二十八日。その日の『小栗日記』にはこう記されています。
知行所上野州権田村へ土着願書今朝肝煎相頼平岡丹波守方江進達致ス
差し出した願書の中身は、采地(知行地)を返納したうえで上野国群馬郡権田村に土着し、農兵を組織して報効の一端としたいというものでした。単に隠居を願い出たのではなく、地元で兵を養うという申し出を含んでいました。
回答は翌二十九日に出ました。同じ日記です。
昨日差出候土着願書江以御書取願之通り土着被仰付農兵取立候様旦拝領高之内上知之義申立へ有之候得共不及其儀候旨被仰渡候
願いのとおり土着を仰せ付けられ、農兵の取り立ても認められ、さらに知行地の上知(没収)を自ら申し立てていたけれどもその必要はない、と申し渡された――ということです。大坪元治氏の略年譜も、幕府の指令を「采地返納に及ばず、土着勝手たるべし」と記しています。多くの幕臣が知行地を失っていくなかでの、異例の扱いでした。
なぜ権田村だったのか
小栗家の知行地は上野・下野・上総・下総に点在していました。権田村の村高は三百七十五石。これに対して、下野国足利郡の高橋村は村高千三百五十四石あり、交通の便もはるかによい土地です。なぜ大きく便利な村ではなく、山間僻地の権田村だったのか――この問いは早くから立てられてきました。
昭和二年の『群馬県史』第三巻は、早川珪樹氏が引く小栗自身の答えを載せています。江戸を発つ前夜に訪ねてきた彰義隊の頭取・渋沢成一郎に対して語ったという言葉です。
前将軍に於て我々の主戦説は容れられるに於ては、策すべき途多々ありと雖も、不幸我々の主戦説は、前将軍の容る所とならず、仮令東北諸藩を糾合して戦ふとも無名の師にて勝算あるなし。只騒乱平定後に於て、強藩間或は権力を争ひ、相軋轢し、群雄割拠の状を呈し、国家の統一を欠くに至るやも知るべからず。此の如き時に於て、外国が其隙に乗ずるあらば、実に由々敷大事なり、万一然ることあらば、我は直に前将軍を奉じ、天下に飛檄し、困難を除くと同時に、中興を策せんと欲す。幸に天下太平を謳歌するに至らば我は山間の一頑民として終らんのみ、故に此の繁雑を避け、殊更に僻邑権田村を撰みしのみ。他に何等の思惑あるにあらざるなり
主戦論が容れられなかった以上、東北諸藩を糾合して戦っても大義名分がなく勝算はない。ただ、騒乱が収まったあとに強藩どうしが権力を争って群雄割拠の状を呈し、その隙に外国がつけ込むことこそが恐ろしい。そうなったときに動けるよう身を退けておく。何ごともなく天下が泰平になれば、自分は山間の一頑民として終わるだけだ――そういう内容です。
もう一つ、現実的な理由も指摘されています。権田村には名主の佐藤藤七や誉田三左衛門といった有力者がいました。なかでも藤七は、万延元年の遣米使節に随行した一人で、小栗からもっとも信任されていた人物です。かねてから土着を勧めていたのではないか、というのが『群馬県史』の見方です。
三野村利左衛門の千両箱
許可が下りたあとも、小栗は一か月ほど江戸に留まりました。この間、かつて小栗家の渡り仲間から身を起こし、のちに三井を支えることになる三野村利左衛門が、二月四日・十四日・二十日・二十四日と四度にわたって小栗家を訪ねています。
蜷川新『維新正観』によれば、三野村は江戸を去ろうとする小栗に千両箱を差し出し、「米国に一時渡らるべし」と亡命を勧めました。小栗はこれを辞退して、こう答えたと伝えられます。
好意は謝するけれども、思う所ありて、暫く上野国に引き上げる。もしも後年婦女子の困厄する折があったならば、その時は何分宜しく頼む
二月二十八日、江戸を発つ
二月二十六日と二十七日は暇乞いの往来に費やされました。会津藩の神尾鉄之丞・秋月貞次郎が別れの挨拶に来たことも日記に見えます。
出立は二月二十八日。日記によれば、朝五ツ時前(午前八時前)に母堂・お道・お鉞を先に発たせ、引き続いて小栗自身と又一が発ちました。途中、大成の普門院に参詣しています。その日は夕七ツ半時過ぎ(午後五時過ぎ)に桶川着。翌二十九日は朝七時に桶川を出て吹上で昼食、午後三時過ぎに深谷泊。晦日は朝七時出立、新町で昼食、午後四時前に高崎泊。そして三月朔日、朝八時前に高崎を発ち、室田で昼前に支度をととのえて、夕七ツ時過ぎ(午後四時過ぎ)に権田村の東善寺へ到着しました。日記は最後にこう書き添えています――「村役人共気嫌聞二罷出ル」。
一行は家族と家臣あわせて約三十名、家財十箱を伴っていました。武器も携行しています。大坪元治氏の略年譜は大砲二門・小銃二十挺・弾薬若干としますが、蜷川新は「持ち行きたる武器は大砲一門(二門と記せしは誤)小銃二十挺及弾薬のみなり」と訂正しています。いずれにせよ、この武器と、のちに観音山で始まる普請とが、「陣屋を構えている」という疑いを招く材料になっていきました。
なお小栗家には旧来からの貯金三千両があり、外国から購入した金庫に収めて炉のそばに置いてあったと伝わります。土着の際にはこれを持参し、うち千六十両を観音山の居宅の経営に投じたと記録されています。
典拠:『小栗日記』群馬県史料集第七巻/『倉渕村誌』(『群馬県史』第三巻、蜷川新『維新正観』を引く)/大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年
→ 三ノ倉の暴徒撃退