慶応四年正月、鳥羽伏見で敗れた徳川慶喜は、夜陰にまぎれて大坂城を抜け出し、軍艦開陽丸で品川沖に着きました。正月十一日のことです。小栗上野介忠順の日記は、翌十二日の条にこう記します。
登城致候処、昨夜大坂より御敗軍ニ而開陽丸御船ニ而品川沖江還御被遊候由ニ付(中略)大坂城者大敗ニ而御引上之由ニ有之候
この日から江戸城内で大会議が開かれます。そこで小栗が述べたのが、のちに「箱根殲滅作戦」として知られる作戦計画でした。
駿河湾から砲撃する
骨子は単純です。敵を箱根山中に入らせてから、退路を断つ。
当時、幕府の海軍力は圧倒的に優勢でした。砲二十六門を備える開陽丸をはじめ新鋭艦八隻。この艦隊を駿河湾に回航し、東海道を東へ進む西軍の密集部隊を砲撃する。後続部隊は身を隠す場所もありません。坂本藤良氏はこう要約しています。
より詳しい形で伝わる版では、作戦は四段構えになっています。
艦隊を駿河湾に回航し、東海道を進む西軍の密集部隊を砲撃し、糧道と退路を遮断する
陸軍は精鋭の伝習隊をもって、糧道と援軍を断たれた敵軍を箱根以東に誘い入れ、一挙に粉砕する
海軍の一部を兵庫近海に回航して砲撃し、西軍の補給根拠地との連絡を断って孤立させる
そうするうちに九州の不平分子が起こって薩軍の虚を衝き、全国の大小名も形勢を見て幕府方につくだろう
敵の主力を隘路に押し込めるだけでなく、海から補給線そのものを切り落とす構想です。東海道を東へ向かう軍勢が、どこで細くなり、どこで海に接するかを知っていなければ立てられない案でした。
官軍は現に立往生していた
この作戦が絵空事でなかったことは、進軍する側の実情が示しています。錦の御旗を立て、品川弥二郎のつくった「宮さん、宮さん」とともに景気よく東へ向かった討幕軍は、表面は立派でも兵糧もカネも欠乏していました。はやくも大津あたりで立往生し、その後も江戸に着くまでに何度も街道で立往生しています。旅館の宿泊代さえ払えませんでした。
そのたびに千両箱を急送したのが三井です。払えない分は維新後に返すものとされました。錦の御旗はそのおかげでようやく進軍できたのであり、三井の倉庫からは古金銀まで売り払われるにいたります。革命成就後に三井が「官金為替御用達」の特権を得たのは、当然の成行きでした。補給を海から断つという小栗の発想は、この弱点を突くものでした。
「われわれの首はなかったろう」
のちにこの作戦を聞いた官軍側の作戦立案者・村田蔵六(大村益次郎)は、もしこれが実行されていたら、われわれの首はなかったろう、と語ったと伝えられます。上野戦争のあと、官軍の参謀・軍監が話し合っていた席でのことだったといいます。
正月十五日、芙蓉の間
小栗の案は容れられませんでした。小栗にしてみれば、慶喜の行動はあまりに首尾一貫しない。薩摩が君側の奸なら、あくまでそれを除くのが筋である。長州は朝敵と呼ばれながらあくまで戦ったからこそ、今日その立場が逆になった。たまたま緒戦で負けたからといって恭順するのはどうしてか――そう考えていたはずだ、と坂本藤良氏は書いています。
この罷免については、小栗が奥へ入ろうとする慶喜の袖をとらえて離さず、青ざめた慶喜から直々に罷免を言い渡された、将軍の「お直きの罷免」は幕府史上小栗ひとりだけだった、という話が伝わります。しかし坂本氏は、この説はドラマとしては面白いが史実ではない、と明確に否定しています。正しくは正月十五日、老中列座のもと芙蓉の間で、酒井雅楽頭から言い渡されたものです。小栗自身の日記が、その日をこう記録しています。
於芙蓉間御役御免勤仕並被仰付候旨酒井雅楽頭被仰渡夕七ッ半時過退出致ス(中略)右ニ付一座并親類等江為知出ス
罷免を告げられ、夕方七つ半過ぎに退出し、その足で一座と親類に知らせを出した。淡々とした記述です。なお旧幕臣のあいだでは、小栗が罷免されたのは主戦論を唱えたからではなく、慶喜の袖をとらえて激語を発した前例のない無礼のためだった、とも語られていました。
江戸を救ったのは何だったか
「もし小栗の説が容れられていたなら、江戸は戦火の巷となったであろう」という批判があります。西郷と勝の会談によって江戸が救われた、という明治以来の定説を土台にした見方です。坂本藤良氏は、これを間違いだと退けています。
西郷は最後まで江戸攻撃しか考えておらず、三月十五日を総攻撃の日と予定していました。三月九日に山岡鉄舟が身命を賭して西郷に会ったのちも、三月十三日には横浜へ木梨精一郎を派遣し、「十五日はいよいよ総攻撃につき、たくさんの負傷者が出るから、その救助をたのむ」とパークスに依頼しています。戦うつもりがなければ、この依頼はありえません。
西郷が攻撃をやめたのは、このときパークスが三つの理由――慶喜が恭順の意を表しているのに攻撃するのは万国公法の理にあわない、戦争になれば横浜のイギリス人居留民の安全にかかわる、江戸・横浜に戦火が及べばイギリスの貿易上の損害が大きい――を挙げて厳重に警告したからでした。木梨の報告を聞いて、さすがの西郷も顔色を変えたといいます。そして話を極秘にしたまま、十四日に海舟と会見し、海舟に花を持たせる形で江戸攻撃をやめたのです。
ではなぜパークスが反対したのか。坂本氏は、日英貿易への打撃に加えて、このとき横須賀に強力なフランス艦隊が寄港していた事実を挙げます。イギリス艦隊は遠く西日本方面で活動しており、江戸・横浜が戦場になればイギリスは居留民を守れないが、フランスは守れる。横須賀は、パークスに対する無言の圧力として働いた――小栗が心血を注いだ横須賀製鉄所が、はからずも西郷の武力行使を牽制したことになる、というのです。
箱根の作戦は実行されませんでした。しかし小栗が海から江戸を守ろうとして遺した設備は、別の形でその役を果たしました。
典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/顕彰会会誌『たつなみ』
→ 江戸城大評議