慶応四年(1868)四月二十二日、東山道総督府から高崎・安中・吉井の三藩へ、小栗追捕を命じる回文が発せられました。ここでは、その命令が出るまでに何があったのか、そして命令を受けた三藩がどう動いたのかを追います。
「小栗征伐」を称した暴徒と、軍用金の噂
発端は、権田到着からわずか三日後の出来事でした。三月三日から四日にかけて、武州秩父から起こって藤岡・富岡あたりを掠め歩き、室田で野州隊と合流した集団が、「小栗征伐」と称して三ノ倉に押し寄せてきます。狙いははっきりしていました。小栗が多額の軍用金を味噌樽に入れて権田へ運び込んだ、という噂です。
この噂の出どころについて、木屋隆安氏は『みやま文庫』で一つの説を書いています。慶応四年一月末、勝海舟が西郷の片腕である木梨清一郎と板垣退助に対し、小栗は先の大評定で天朝に弓を引くことを将軍に迫ったがこれは自分たちが止めさせた、怒った小栗は公金約一千万両を着服して上州権田に隠遁した、彼を討つことは官軍の軍費を充実させ新政府の財源をうるおすことになる、ただし彼は新兵器を所有し私兵も相当数持っているから留意されたい――と伝えた、というのです。
この襲撃は、又一とフランス式の教練を受けた歩兵十数名、それに村の猟師や壮健な男たちを合わせた約百人によって撃退されました。しかし、追い返されたことが次の火種になります。
訴え出た者たち
『小栗上野介末路事蹟』によれば、撃退された暴徒側の訴えに加えて、「比較的関係薄い某々村名主より東山道総督府に前後一両日訴告有りたり」という動きがありました。その内容は、小栗上野介は七千の大軍を打ち破る兵力を持ち、かつ朝廷に対して叛逆の企図をもっている、というものです。
東山道総督府の総督は岩倉具定(岩倉具視の子)、参謀は板垣退助・伊地知正治。総督府はこの訴告を取り上げ、「小栗に叛逆の企図あり」と四方に宣告したうえで、四月二十二日付の回文を出しました。宛先は、高崎藩主・松平右京亮、安中藩主・板倉主計頭、吉井藩主・松平鉄丸の三人。差出は東山道総督府執事です。権田村に陣屋を厳重に構え、加えて砲台を築いているという、まったく事実に基づかない前提で書かれた命令でした。
実際に観音山で進んでいたのは、新築中の住居三棟のうち一棟の上棟が終わり、二棟目にとりかかろうとしていた工事です。三月六日から始まった普請が五十二日目の四月二十八日に上棟を迎え、小栗もその日の昼過ぎに普請場へ出向いています。これが彼が観音山へ登った最後になりました。
心ならずも兵を出した三藩
総督府の厳命に、三藩の藩主が抗することはできません。四月二十九日、三藩はいずれも追捕の人数を繰り出しました。『倉渕村誌』が「厳命抗し難く、心ならずも」と書くとおりの出兵でした。
報はただちに権田に届きます。その日の『小栗日記』には、高崎・安中・吉井の人数が談判のため出張してくるという風聞を受け、まず沓掛藤五郎を使者として高崎方面へ差し向けたことが記されています。神山あたりまで出張ってきていた一行に口上を申し入れたところ、いずれにせよ権田まで出向いたうえで談判したい、との返答でした。
この日、三ノ倉に到着した三藩の兵はおよそ八百。そのまま同所に一泊します。
閏四月一日、東善寺での談判
翌閏四月一日、三藩の代表が権田村へ向かいました。『小栗日記』はその名を書き留めています。高崎藩から宮崎八三郎・菅谷次兵衛・大野八百之助、安中藩(板倉主計頭家来)から星野武三郎・福長十兵衛・星野閨四郎、吉井藩(松平鉄丸家来)から山田角右衛門・黒沢省吾。兵は東善寺の門前に留め置き、代表だけが上使として寺内に入っています。
三藩の兵にとって、小栗はかつて幕閣の重鎮であり、恩顧ある上司でもありました。取り調べは慇懃に礼を尽くしたものだったと伝わります。
これに対する小栗の応答が、日記に詳しく残っています。要旨はこうです。観音山はかねてから自分の持ち林であり、畑地に家を建てればその分だけ年貢の高内引になる。建てたのは雨露をしのぐまでの家作で、要害になるほどの普請ではない。すぐに案内させるから直接目で見てほしい。そもそも陰謀を抱く者が、屋敷のまわりに田畑を新しく開いて後年の生計を立てようとするものだろうか。十分に見分を遂げたうえで、別心がない旨を各藩から総督府へ申し立ててほしい――。
代表たちの答えは「其儀は御尤千万」。自分たちは事情をよく了解しており、藩としてもとより疑いはない。ただし報告の根拠になる一事がほしい、というのです。そこで小栗が示した解決策が、砲台の件が回文に書かれている以上、手元の大砲をそのまま各藩に預ける、それを一廉の根拠にされよ、というものでした。一同が承知し、大砲一門と小銃二十一丁が引き渡されます。
その後、荒川祐蔵の案内で、代表たちは「陣屋厳重に相構え」といわれた観音山の普請場をつぶさに検分しました。陣屋もなく、砲台もなく、命令書にあるような謀叛の形跡は何一つ見つかりません。彼らは小栗の真意を了解し、官軍に伝えると約して引き揚げていきました。
なお、談判の結果がどう転ぶか分からないため、この日の昼過ぎ、母堂・道子・鉞子らはいったん上ノ窪へ立ち退いています。話がまとまったのを見て、夕刻に寺へ戻りました。
引き揚げに際して三藩の代表は、養子の又一を高崎まで同道するよう求めます。小栗はこれを認め、翌二日、又一は塚本真彦・荒川祐蔵・渡辺多三郎、それに権田村民二名を伴って高崎へ向かいました。四日には高崎藩士とともに総督府へ出頭して弁明する予定である――というところまでが、家来の報告として日記に書かれています。
現地に来た三藩は納得し、事実無根と結論した。それでも事態は最悪の方向へ動きます。その先の経緯は、別の記事で扱います。
典拠:『小栗日記』群馬県史料集第七巻/『倉渕村誌』(東山道総督府回文、早川珪村『小栗上野介末路事蹟』、木屋隆安『みやま文庫』を引く)/大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年