小栗上野介忠順にまつわる話のなかで、もっとも広く知られているのが「赤城山の埋蔵金伝説」でしょう。幕府が瓦解する際、莫大な御用金を赤城山のどこかに埋めた、その指揮を執ったのが小栗だった――という言い伝えです。
この話には、史的根拠がありません。根拠がないと繰り返し言われ続けてもなお発掘が続いたこと、そのために小栗家の人々が実害を被ったことまでが、記録に残されています。
「何らの史的根拠もなきこと」
昭和十六年刊の阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』には、「赤城山に軍用金を埋めたは嘘か事実か」という一節が立てられています。阿部道山氏は当時すでに、赤城山に何億万円が埋蔵されている、権田村の観音山にある、山梨県下にある、といった宣伝が多くの人に迷惑をかけていると書き、こう断じました。
これは全く何らの史的根拠もなきことであり、小栗の誠忠なる、あの人格的高風を汚す外何の利もない
阿部氏は、噂の出どころについても見当をつけています。権田や高崎の地方には、小栗が蟄居するにあたって土産として村の人々に金を配ったという言い伝えがある。屋敷を引き払うにあたって五百や千の小遣いを持っていたとしても怪しむに足らない。そうした事実が想像を呼び、想像が想像を呼んで、とてつもない夢を生んだのだろう――と。「赤城山金埋蔵の一件は、夏の夜長に他人の聞いた一場の夢である」と結んでいます。
大砲を曳いて中山道を行った
噂のもう一つの種として、阿部氏は具体的な場面を挙げています。慶応四年正月十八日、小栗はフランスから購入した大砲を油紙にしかと巻き、従者二十余名にこれを曳かせて中山道を通りました。権田へ向かう道中です。「今でも古老は之を見たと私に告げてくれる」と阿部氏は書いています。
重い荷を載せ、二十人以上の家来が付き従って街道を北へ向かう。この光景が、のちに「軍用金一億万両を赤城山に蔵した」という噂の原因ともなった、というのです。なお、この大砲は七十一年を経て、横須賀海軍工廠から小栗家の菩提所である普門院へ寄進されています。
なぜ小栗の名が使われたのか
阿部氏は、この物語が小栗に結びつけられた筋道を、身も蓋もない言い方で説明しています。幕府には三百万両や五百万両の金があったはずだ、江戸城明け渡しはあっさり済んでしまった、明治政府は金がなくて困っていた――ここまでは世間の誰もが知っている。では幕府の御用金はどうした。その隙間に、幕末史に暗い人々を欺く余地が生まれる。
では誰を主役に据えるか。徳川慶喜では駄目、勝海舟でも福澤諭吉でも、栗本鋤雲でも木村芥舟でも世間が信じない。安政末年から慶応にかけての幕末の大立物であり、幕府最後の勘定奉行、日本の金の大元締。しかも斬首に遭い、その前後の消息が杳として知られていない。条件を満たすのは小栗上野介ただ一人でした。「この人物ならこの探偵小説的物語を構成するには好適の人物である。あたりさわりがない」と阿部氏は書いています。
山梨の穴と、小栗家が受けた実害
発掘は赤城山だけではありませんでした。山梨県南巨摩郡増穂村春米(つきよね)でも、大がかりな発掘が続けられます。掘っていたのは河原秀守という人物で、小栗の子孫を称していました。昭和七年からの発掘で、地上七十尺のやぐらを組み、五馬力のポンプを四台据え、エレベーターで地底二百五十尺までもぐるという規模。昭和十五年までに工費七十万円をつぎ込み、昭和二十年代には電気代だけで月六万円かかったと報じられています(昭和二十八年一月四日付『読売新聞』)。
資金は外から入っていました。はじめは宗教団体の信者グループが頭山満の玄洋社あたりと組み、終戦後は名古屋の倉庫業者や鉱山業者が出入りし、のちには名古屋のパチンコ業者が資本家になっていたと同紙は伝えています。
被害も出ました。昭和九年、河原秀守は小栗家当主・小栗又一氏の前に姿を現します。多田外記という小栗家の家臣から伝えられた秘密の手文庫があり、埋蔵金の手がかりとなる文書が入っているが、本家立ち会いのうえでなければ開けてはならないと言い伝えられている――という話でした。又一氏はこの人物を信用せず、たびたびの訪問を断り続けましたが、手文庫の開封だけでも立ち会ってほしいと粘られ、ついに出向きます。ところが文庫は見せてもらえず、そのうえ毒酒らしきものを飲まされて医師の手当を受け、辛うじて一命を取り止めました。警察沙汰になったものの、証拠不十分で終わっています(小栗忠人氏「埋蔵金よもやま話し」、顕彰会会誌『たつなみ』)。
同じ人物は、阿部道山氏のもとにも通っていました。墓参を重ねて書斎に通されるまでになったところで、発掘が成功したら普門院に山門を独力で新築する、と持ちかけたのです。阿部氏は怒ってこれを退けました。秘密書類を見せろと言えば、半紙に毛筆で写したものを出すばかりで、本物は決して見せなかったといいます。昭和二十六年頃には権田の東善寺にも外車数台で乗りつけ、小栗公の大法要を営みたいから僧侶を三十人集めてほしいと要請。寺は急遽三十人の僧を集めて法要を営みましたが、費用は立て替えさせたまま支払われず、大損害を蒙ったと伝わります。
変わり続ける「名目」
小栗忠人氏は、この伝説の性質を一点で見抜いています。昭和初期には「小栗個人が埋めた小判」だったものが、今日では「徳川の埋蔵金」「幕府の軍用金」と名目が変わっている。名目が変われば分け前の権利者も変わる。「この埋蔵金変貌の一事を見ても眉唾物であることがわかる」というのです。
忠人氏はもう一つ、経済の理屈からも論じています。自己資金を十分すぎるほど持っている実業家が、わざわざ高い利息のつく金を銀行から借りて新事業を興すだろうか。幕末の事情も同じで、小栗はフランスから利息付きの借款を取り付けようと奔走していました。埋めるほどの金があるなら、そもそも借りる必要がありません。
山梨の件については、増穂町の郷土史研究会が当時すでに結論を出しています。土地の古老に一人としてそんな話を聞いた者がいない。財宝は駿河湾の岩渕から富士川を鰍沢までさかのぼり、そこから雪の山道を馬と人足で春米まで運んだというが、富士川十八里の急流をのぼるには三日はかかり、海の船は入らないから平底船に積みかえねばならない――運べるはずがない、というわけです。
河原秀守は昭和四十二年、黄金を見ないままこの世を去りました。
小栗の暮らしぶりは、本人の残した家計簿「御勝手方勘定帳」に几帳面に記録されており、権田で官軍が押収した所持品を見ても質実で慎ましい生活がうかがえます。顕彰会は「埋蔵金云々のことは、悪意をもって流されたデマにすぎなかった」と書いています。
典拠:阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年/小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』・顕彰会会誌『たつなみ』
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