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大政奉還と小栗の反対論

諸藩連合ではなく、郡県制と大統領制を組み合わせた国家像を思い描いていたと伝わる小栗。大政奉還の裏側にあった、もう一つの構想です。

慶応三年(1867)十月十三日、将軍徳川慶喜は在京諸藩の重役を京都の二条城に集め、大政奉還の意志を伝えて意見を求めました。翌十四日、上表文を朝廷に提出。慶長八年以来二百六十五年続いた幕府による政治支配は、ここで終わりを告げます。

このとき勘定奉行だった小栗忠順が何を考えていたかは、いくつもの書物に断片として残っています。それらを並べると、教科書的な「佐幕派の抗戦論者」とは違う像が出てきます。

「天下を郡県となし、大樹を以て大統領となさん」

小栗の構想を最も短く伝えるのは、渋沢栄一『徳川慶喜公伝』に記された一句です。

天下を郡県となし、大樹(将軍)を以て大統領となさん

藩という単位を解体して中央から役人を派遣する郡県制を布き、将軍を大統領に据える。朝廷はいわば国の象徴的存在として尊崇と親愛の対象とする――諸藩の代表による合議を説く公議政体論とも、旧来の幕藩体制とも異なる、第三の設計図です。

これが小栗一人の思いつきでなかったことは、別の記録が示しています。松平大蔵大輔は『続再夢紀事』のなかで、こう証言しました。

かかる説は決してなしと言うべからず。余が総裁在職中にも、酒井(飛驒守忠毗、若年寄)、小栗の両人が同論をなせるを聞けり

幕閣の総裁職にあった人物が、小栗と若年寄・酒井飛驒守の二人が同じ議論をしているのを聞いた、と言っているわけです。一方、渋沢栄一はこの種の議論を「欧米の政体を側聞して、共和政治を日本に布かんなどという妄論」と切り捨てています。評価は割れていましたが、議論の存在そのものは複数の記録に残りました。

勝海舟が見た計画

勝海舟は『氷川清話』で、小栗から直接打ち明けられたこととして、こう語っています。

小栗は……幕府の下に郡県制度を立てようと目論んで、仏蘭西公使レオン・ロセス(ロッシュ)の紹介で、仏国から銀六百万両と、年賦で軍艦数艘を借り受ける約束をしたが、これを知っていたものは、慶喜殿ほか閣老を始め四、五人に過ぎなかった

構想は机上の図面ではなく、資金の手当てとセットで進められていました。勝はこれに絶対反対だと説いて回りました。ただし彼も、郡県制度案それ自体は悪くないと認めています。もし本当にやるつもりなら、まず幕府が「自ら倒れ、自ら削小して」かかるべきだ――順序が違う、という批判でした。

福地源一郎が持ち込んだ文書

小栗の開明的な考え方に共鳴し、尊敬していたのが、幕臣で後にジャーナリストとなる福地源一郎(桜痴)です。二回の洋行を経た福地は、自分の思想の揺れをこう告白しています。もともとは純粋な佐幕主義で、京都の干渉と諸藩の横車を憎んでいた。ところがフランス滞在中に見聞したのは激烈な自由民権論で、大いに心を動かされ、英米の政治論や英仏の歴史書を愛読するようになった。「第一の『極端保守』と第二の『極端進歩』とは、いつも自分の胸中で衝突していた」――そのさなかに大政奉還を迎えました。

福地の出した結論は明快でした。返上した以上は回復できない。このうえは徳川氏がむしろ進んで中心となるべきである。このまま傍観していたら、徳川幕府が倒れて「薩長幕府」ができるだけだ。だから将軍自身が参内して公卿諸侯諸藩会議の制度を立て、自ら大統領となって指図するのがよい。うまくいかないならば、ナポレオンがフランスでしたように、名義は大統領でその実は独裁権を握ってしまうべきだ――。

福地はこれを文書にまとめ、もっとも理解があるはずの小栗のところへ持参します。すぐ賛成してもらえると思っていた彼は、こう頼みました。「もしご同意が得られれば、京都への使いは自分をやってください」。

小栗の返事は、賛成でも反対でもありませんでした。

あなたの考えは、きわめて優れている。しかし、第一に、将軍ご自身がどうお考えになっているかが、わからない。第二に、京都にいる閣老やその他の『腰抜官員』では、とてもやれないであろう。そして、この説を提出した場合、かえって薩長に乗ぜられる危険性がある

思想ではなく、実行可能性の話でした。福地は「心中、小栗氏の説にはなはだ不服だった」と書いています。ほかに取り次いでくれる人もいないので、残念ながら諦めた。しかし――と、彼は続けます。

あとになって考えてみると、小栗氏の言は、江戸にいるのに遠く上方の事情を洞察していたことがわかった。もし自分の意見が容れられて、京都に出かけていっても、到底、実行できる状況ではなかったのである

埋もれた構想

阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』には、これとは別の伝えも記されています。小栗は慶喜に直諫して、幕府自らの手で大政奉還をなし、大革新した政府を樹立すべしと献策した、というのです。返上そのものに反対したのではなく、返上のしかたと、その後に立てる政体を問題にしていた――二つの記録は、そう読むと重なります。

坂本藤良氏は、この構想を「龍馬の船中八策と双璧であったと言ってもよいほどである」と評しました。当時の朝廷には外国と折衝できる人材が皆無に近く、幕府側には少数ながら優秀な開明派の官僚がいた。だから大統領制は、必ずしも非現実的な空論ではなかった、というのが氏の見立てです。しかし明治以降の天皇制絶対主義のなかで、大統領による共和政体は問題にならない「妄論」とみなされ、そのまま今日に至っている、とも書き添えています。

諸藩という単位を解体して中央に集めるという方向そのものは、四年後の明治四年(1871)、廃藩置県という形で実現しました。手を下したのは、小栗を切り捨てた側でした。

大政奉還ののちも、小栗は幕府陸軍を率いての抗戦を主張し続けます。その姿勢は、年が明けて間もない江戸城大評議で頂点に達します。

典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年(渋沢栄一『徳川慶喜公伝』、『続再夢紀事』、勝海舟『氷川清話』、福地源一郎『懐往事談』の引用を含む)/阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年

→ 江戸城大評議、ただ一人の抗戦論 / 慶応四年の年譜 / フランスからの借款交渉