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戦後初の国際儀礼、講和後の胸像除幕式

講和条約発効後、国際儀礼を受けた戦後初の人物が小栗上野介だったと伝わります。

敗戦から七年後の昭和二十七年(1952)九月二十七日、横須賀の塩見公園で、小栗上野介の胸像が新たに除幕されました。サンフランシスコ講和条約が発効したのは同年四月二十八日。日本が主権を回復して、まだ五ヶ月しか経っていない時期のことです。

大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』は、この日の式を次のように記録しています。式を執り行ったのは神奈川県知事・横須賀市長・商工会議所会頭ら。参列したのはフランス大使、米軍基地司令官をはじめとする内外の名士でした。大坪氏はさらに、こう書き添えています。

昭和二十七年九月二十七日、講和会談後始めて国際儀礼により米仏両国の代表列席、仏海軍儀仗隊礼式の下に銅像除幕せられたるもの、将に小栗上州唯一人とす

講和のあと、外国代表を招いて国際儀礼の形式で行われた除幕式は、これが最初だった――その対象になったのは、明治政府から長く「賊」として扱われてきた一人の幕臣だった、というのです。大坪氏はその一文を「これも何を意味するものなるか」と結んでいます。

なぜ九月二十七日だったか

日付は偶然ではありません。慶応元年(1865)九月二十七日は、横須賀製鉄所の鍬入式が行われた日です。小栗が万延元年の遣米使節から横浜へ帰り着いたのも、邦暦の九月二十七日でした。横須賀という町にとって、この日は起点にあたります。

最初の胸像が除幕されたのも、大正十一年(1922)九月二十七日でした。

ヴェルニーか、小栗か

その大正の胸像が建つまでには、ひとつの経緯があります。大正十一年の横須賀開港五十年祭にあたり、フランス人技師ヴェルニーから工学上の恩を受けた学者たちが、報恩謝徳の意味で彼の胸像を建てようと運動を始めました。

この話を当時の工廠長・海軍中将黒井悌次郎に持ち込んだのが、化学者の桜井錠二博士です。黒井は、ただちにその誤りを指摘しました。いまの工廠はヴェルニーによって開設されたものではない。小栗上野介の決断によってなされたもので、小栗がフランス公使ロッシュを介して、当時上海にいたヴェルニーを雇ったにすぎない。ヴェルニーの像を建てるのであれば、まず上野介の像を建て、そのうえで彼の像を建てるのが順序であろう――。

こうして、小栗の胸像が先に建つことになりました。制作したのは彫刻家の朝倉文夫です。いま横須賀の諏訪山公園には、小栗の胸像と、そこから一段下がって軍港を眺める位置にヴェルニーの銅像が並んで建っています。

このとき、建設基金として当時の皇后から金一封が下賜されました。小栗家十三代の貞雄は、のちにこう語っています。

世は何んと誤伝宣伝しても、上野介の子孫として、少しの思ひ残す所はありません。然も小栗の心血を注いだ、あの軍港を睥睨して、永遠に小栗の胸像が立てられた

招魂碑から国際儀礼へ

名誉回復の歩みには、もう一つの節目があります。昭和九年(1934)十一月二十五日、小栗家の菩提寺である大宮の普門院境内で、高さ一丈三尺の花崗石に徳川家達公が筆をとった小栗上野介招魂碑の除幕式が行われました。総理大臣・陸軍大臣・海軍大臣・文部大臣がそれぞれ代理を派遣し、岡田啓介総理の祝辞には次の一節がありました。

私が海軍軍人として殊に感謝に堪へないのは、今日の横須賀工廠の濫觴たる横須賀造船所を建設せられたことであります。此の点から申しまして我海軍建設の祖と謂ふも過言ではないのであります

大正の胸像、昭和九年の招魂碑、そして昭和二十七年の国際儀礼。旧交戦国であったアメリカと、幕末以来ゆかりの深いフランスの代表が列席したという事実は、一地方の記念行事を超えた重みを持っていました。

権田・東善寺へ

塩見公園のこの胸像は、のちに横須賀市から権田の東善寺へ寄贈され、移されました。いまは前庭で、盟友・栗本鋤雲の胸像と向かい合って建っています。造船所の町・横須賀と、最期の地・権田とが、一体の胸像を介してつながりました。

権田では、それに先立つ昭和七年(1932)にも、処刑場あとに碑が建てられていました。倉田村長・市川元吉氏が委員長となり、倉田・烏渕両村の有志から寄附を募ったもので、高さ六尺、横三尺余り。碑面の文字は、小栗夫人の妹の子にあたる法学博士・蜷川新の筆によります。除幕は五月五日でした。

明治の沈黙から数えれば八十年以上。小栗上野介は、国境を越えた敬意の対象となっていたのです。

典拠:大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年/阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年/坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/『倉渕村誌』

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