慶応四年閏四月六日、小栗上野介忠順は烏川の水沼河原で、家臣三名とともに斬首されました。取り調べは一切ありませんでした。翌七日には嗣子の又一忠道が従士三名とともに高崎で斬られ、八日には家臣の塚本真彦母子が自殺しています。三日のあいだに、小栗家の当主も跡取りも失われました。
ここから、小栗の名が公に語られるまでに四十七年かかります。その間に何が起きていたのかを、残された人々の側から見ていきます。
閏四月三日の夜
西軍が迫るなか、小栗は閏四月三日の夜、家族を屋敷から脱出させました。助け出さねばならなかったのは三人です。妊娠六ヶ月の夫人・道子(播州林田藩主建部内匠頭の息女)、祖父忠清の娘である母堂、そして忠道と結婚させるべく権田に呼んであった養女・日下いき子、当時十六歳の少女。
村役人や恩顧の面々を集めた最後の相談の席で、その誠実さと胆力を見込まれて万一の場合の処置を託されたのが、中島三左衛門(のちの誉田三平次)でした。護衛には塚越房五郎、萩原五平次、塚越源吉、中沢兼吉、池田伝三郎、佐藤銀十郎、塚越富五郎、吾妻入山の山田殊平次、そして三左衛門の娘さい子らが加わります。
一行は二隊に分かれました。目ざしたのは新潟。小栗の父忠高がかつて奉行を務め、分骨埋葬の地でもある土地です。夫人の一隊は三左衛門自ら隊長となり、吾妻の入山から「謙信越え」と呼ばれる険路を突破して和山温泉に二泊し、秋山を経て十日町へ出ました。夫人を草刈籠に入れて担いだと伝わるのは、この道中のことです。
途中で路銀が尽きます。三左衛門は塚越房五郎と中沢兼五郎を権田へ帰して三百両の調達を命じましたが、権田も四月二十四日に大音竜太郎が引き揚げ、二十八日に三藩の兵が撤退するという混乱のさなかで、どうにもなりませんでした。二人は下野方面から会津へ直行します。十日町で待ちきれなくなった三左衛門は先へ進み、堀之内村で、善光寺参りの姿に身をやつした母堂といき子の隊とようやく合流しました。
会津の病院で生まれた子
一行は新潟で支度を整え、蒲原郡水原で会津藩の要人と連絡をつけます。明治元年六月、会津城下の病院で、道子夫人は女子を出産しました。くに子と名づけられます。のちに小栗家唯一の血脈となる子でした。
同年九月、会津城は陥落します。籠城中に佐藤銀十郎と塚越富五郎が戦死しました。行き場を失った一行は、翌明治二年二月まで東北の寒空の下で過ごし、ようやく江戸へ辿りつきます。中沢兼五郎の墓碑は、そのときの有様をこう刻んでいます。
尋ねしも知辺の人一人もなく旅金伊果たし家来不残お暇、女中五人我等途方
頼るあてのない一行に手を差し伸べたのが、三野村利左衛門でした。かつて小栗家の渡り中間であり、その引き立てによって才能を伸ばし、このとき三井の支配人となっていた人物です。三野村から金を用立ててもらい、一行はさらに東海道を静岡まで下りました。道子夫人と嬰児くに子、母堂といき子は、ここでようやく落ち着きます。
静岡では、小栗家が断絶することを惜しみ、又一忠道の弟・鉾四郎に小栗家を継がせました。明治二年六月に家名相続、四人扶持、二の丸勤番組を命ぜられています。鉾四郎の名は忠祥といいました。
首級を取り戻す
夫人を実家の建部家へ、母堂といき子を静岡へ送り届けて権田に帰るや、中島三左衛門はただちに次の仕事にかかりました。館林に預けられていた忠順父子の首級の奪取です。高橋村・斉田村らの旧領有志とともに計画を進めました。
明治二年三月の初め、館林法輪寺の門前に二人の男が立ちます。一人は和尚と顔見知りの新当郷村の渡辺忠七。もう一人は百姓姿ながら、どこか腹に一物ありそうな物腰でした。和尚に面会して、こう願い出ます。
私は小栗上野介知行所のもので御座いますが、旧主の首級がこちらに埋葬と承りましたので、せめての石塔など建て度いと存じます
忠七の顔もあり、和尚は奇特な志の者よとその場所へ連れて行き、打ち合わせをして戻りました。後日、その墓地が掘り返されているのを見て和尚は仰天し、石塔の古いのまで詰め込んで念入りに埋め直したといいます。
明治二年四月六日の夜、奪取は成功しました。忠順の首級は権田へ、又一忠道の首級は下斉田に葬られます。慶応四年三月に小栗を迎えてから、その遺骸を全うするまで、ちょうど一年が経っていました。この義挙は、東善寺内の「仁義併存碑」に刻まれて伝えられています。
名を伏せられたまま動き続けた設備
遺族と旧領民がこうして動いていた同じ時期、小栗が築いた設備は、名を伏せられたまま稼働を続けていました。
明治四年十一月二十一日、明治天皇は御召艦龍驤で横須賀造船所に行幸されます。製鋼、滑車製造、建具、木挽機械、造船の諸場と船渠を巡覧し、新官庁で昼食ののち、御雇フランス人ウェルニーらに謁を賜って勅語を下されました。「造船ノ諸場能ク整備シ其業ヲ創立ス、朕今巡覧悦喜ニ堪ヘス、是レ偏ニ汝始メノ勉力ニ依ル」――我が海軍に賜った最初の勅語です。小栗の遭難から三年目のことでした。
造船所を発案し、フランス公使を介してそのウェルニーを雇い入れた人物の名は、この日どこにも出ていません。阿部道山氏は、遣米使節が生んだ三人のうち、維新史を書く者が勝海舟と福澤諭吉だけを記して小栗を除外してきたことを繰り返し嘆き、「少なくとも明治の末年までは、この逆境の筆頭は小栗上野介だった」と書いています。
沈黙が公に破られるのは、大正四年九月二十七日。横須賀海軍工廠創立五十周年の祝典にあたり、工廠長・海軍中将黒井悌次郎が、船廠創設の由来を記した公文書を発表したときでした。海軍当局が公表した文書として、これが最初のものです。処刑から四十七年が経っていました。
典拠:大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年/阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年
→ 三野村利左衛門