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保善寺 ― 江戸の菩提寺

中野区。もと牛込にあった曹洞宗の寺で、幕末以前の小栗家の歴代はここに眠ります。

中野区上高田一丁目三十一番二号。早稲田通りに沿って寺が並ぶ一角に、曹洞宗の保善寺があります。小栗上野介の墓はここにありません。それでも、この寺が江戸における小栗家の菩提寺でした。幕末以前の歴代は、代々ここに葬られています。

牛込通寺町から上高田へ

寺が開かれたのは文禄二年(1593)。開山の和尚は武田信玄の従弟にあたる人です。三代将軍家光が獅子のような猛犬を与えたことから、獅子寺とも呼ばれます。本堂正面に掛かる額「獅子窟」は、江戸時代の高僧・月舟禅師の書です。和尚が信玄の従弟であった縁で、信玄の家臣の末裔の墓も多くあります。

場所はもと牛込通寺町――牛込横寺町とも書かれます――で、現在地へ移ったのは明治三十九年(1906)です。小栗家の屋敷は神田駿河台、菩提寺は牛込。江戸の地図で見れば、神田川を渡って西北へ一里足らずの距離です。

中野区公式:中野区認定観光資源(保善寺・獅子寺)

五代政信から

『小栗日記』に付された家系の注記に、はっきり書かれています。

菩提寺は政信のときから江戸牛込の保善寺とした。代々ここに葬る

五代政信は初名を庄次郎といい、秀忠に仕えて上田攻囲と大坂の陣に功があり、御弓頭となりました。本領に加増をあわせて二千五百石。明暦四年正月十九日に没し、行年七十四。法名は高臺寺良栄で、牛込通寺町の保善寺に葬られています。大坪元治氏の年譜をたどると、以後の歴代が一人ずつ「牛込通寺町保善寺ニ葬ル」と書き継がれていきます。『寛政重修諸家譜』にも、ここが本家の菩提寺として明記されています。

大宮の普門院に葬られているのは始祖・忠政だけで、五代以降は保善寺です。雑司ヶ谷霊園の「小栗家累代之墓」に刻まれているのも、忠順以降の一家だけです。幕末以前の一族の名は、どちらの石にもありません。

→ 雑司ヶ谷霊園の「小栗家累代之墓」 / 普門院 ― 小栗家始祖の菩提所

『小栗日記』に月々出てくる寺

この寺が小栗家の日常にどれほど近かったかは、日記を開けば分かります。江戸にいた日々の記事には、先代の忌日ごとに家来を代拝に遣わした記載が、毎月のように現れます。

一忠高院様御忌日ニ付保善寺へ代拝祐左衛門罷出ル

代拝に立ったのは、用人の武笠祐左衛門、堅太夫、塚本真彦、好三、好之といった面々です。日記に名の出る院号を拾うと、忠高院・覚正院・高臺寺・覚翁・性覚院・貞鏡院・翠性院・瑞雲院・功寿院・本鏡院・宝樹院・慈功院・岩皆院。「高臺寺様御祥月ニ付保善寺へ代拝堅太夫罷出御祭致ス」とあるのは正月十九日の条で、これが五代政信の祥月命日です。

正月と暮には、母堂が自ら参詣しています。「御母様保善寺へ年始御出被成候」「御母様保善寺へ歳暮参詣被成候」。忠高院の忌日に、母堂と鉞子が連れだって参詣した日もあります。忠順自身も「朝五ッ時より保善寺へ参詣いたし五ッ時帰宅致ス」のように、登城前に寺へ寄ってから城に上がった日があります。

忠高院様十三回御忌の法事の日は、朝五ッ時から保善寺に赴いて法事を済ませ、そのまま直に登城して八ッ半時過ぎに退出しました。母堂は春光院殿と同道して参詣し、春光院殿は寺から直に帰られた、と日記は書いています。

家計の帳面にも寺の名が並びます。「保善寺へ年始香でん」「保善寺へ香てん 茶丸袴裏 壱丈六尺代」「御法事に付香でん、保善寺へ上ル」。「保善寺住主死去ニ付香奠」という一行もあります。住職が亡くなれば香典を出す。檀家としての付き合いが、そのまま支出として残っています。

→ 遣米使節手当で大黒字になった年の家計簿 / 武笠銀介

父・忠高の分骨

日記に繰り返し出る「忠高院様」は、忠順の父・忠高の法名です。忠高は旗本・中川飛騨守忠英の四男に生まれ、小栗家に婿養子として入りました。文化十年十月に相続し、天保十三年に西丸目付、弘化四年に御持頭、嘉永七年に新潟奉行となります。

奉行在勤はわずか一年でした。安政二年(1855)七月二十八日、新潟の役宅で病没します。行年五十八。遺骨は新潟の寺町・法音寺に葬られ、そこから牛込の保善寺に分骨されました。忠順が跡目を相続して「又一」の名を継いだのは、同年十月二十二日です。

分骨であったため、二つの寺への務めがその後も並行して続きます。日記の支出には「新潟法音寺へ盆料」「新潟法音寺へ暮の附届」「新潟法音寺へ御加増ニ付上ル」が繰り返し現れます。遣米使節から帰ってきたときには、「法音寺御霊前へ御役替並亜国より帰府致候ニ付御香奠相納申上候」とあります。世界を回って江戸に戻った報告を、新潟の父の霊前に納めたわけです。

→ 父・忠高の死と家督相続 / 大西洋・喜望峰を回って帰国

東善寺が「菩提寺」と呼ばれる理由

小栗上野介の菩提寺というと、いまは群馬県高崎市倉渕町権田の東善寺です。本家の菩提寺が江戸の保善寺であるのに、なぜそう呼ばれるのか。忠順がそこに隠棲し、そこで斬られ、そこに葬られたからです。墓があり、遺品があり、墓前祭が営まれている寺が、結果として菩提寺の役目を負いました。

三つの寺は、それぞれ違う役目を持っています。保善寺は五代政信以来の歴代が眠る本家の菩提寺。普門院は始祖・忠政の墓所で、大成の地が分家・小栗仁右衛門家の領地となってから、その家が忠政の墓を守って菩提寺と定めた寺。東善寺は忠順父子と家臣が葬られ、いまも小栗を顕彰し続けている寺です。どれか一つが正しいわけではありません。

→ 東善寺 ― 小栗上野介が眠る寺 / 閏四月六日、水沼河原の最期

訪ねるとき

上高田一丁目、早稲田通り沿い。中野区が区内の観光資源として案内しています。現役の寺院と墓地ですので、参拝の作法に従ってお訪ねください。本堂正面の「獅子窟」の額は、外から仰ぐことができます。

典拠:『小栗日記』群馬県史料集第七巻/大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年/大坪指方・穂積驚『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会、昭和五十年/坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』・顕彰会会誌『たつなみ』/中野区「認定観光資源」。

→ ゆかりの地の一覧 / 神田駿河台と築地