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神田駿河台と築地 ― 東京に残る跡

小栗家が代々住んだ屋敷、艮斎の塾、築地ホテル館、そして世界一周の出発点。

東京に残る小栗の跡は、建物ではありません。駿河台の屋敷も、築地の二つの施設も、現存するものはありません。残っているのは地形と、坂の名と、場所です。それでも立ってみる値打ちがあるのは、ここが生まれた家であり、世界一周の出発点であったからです。

屋敷はどこにあったか

忠順は文政十年(1827)二月十二日の早朝、神田駿河台の屋敷で生まれました。小栗家の先祖は安祥譜代、家康が駿河から江戸に移ったときに従ってきた家です。駿河から来た家臣たちは富士山がよく望まれるあたりに屋敷を構えました。地名もそれによります。

場所は古図で追えます。嘉永二年(1849)の『小川町切絵図』では、神田川の河岸から駿河台下に向かう坂道に面した武家屋敷で、川岸から数えて五軒目です。正保図(1644年刷)には、近くの道に「小栗坂」の名が付いています。

いま歩く目印は甲賀坂です。お茶の水仲通りのNTT駿河台の前から、明大通りの明大前交差点を通って山の上ホテル前に至る坂です。小栗家の屋敷前を甲賀坂が通り、坂を西北に進んで道を横切り、一軒置いた家が旗本中川飛騨守の屋敷でした。忠順の父・忠高は、この中川家の四男から婿養子に入った人です。その中川邸が、いまの山の上ホテルの場所です。

屋敷跡を示す碑や説明板は立っていません。千代田区の町名由来板「駿河台(西)」が神田駿河台二丁目三番に立ち、旗本がこの高台に屋敷を構えたいわれを記していますが、小栗家について書かれたものは区の案内に見つけられませんでした。

→ 誕生と生家、小栗家の家系 / 父・忠高の死と家督相続 / 三野村利左衛門との出会い

千代田区公式:町名由来板:駿河台(西) / 甲賀坂

屋敷の長屋にあった塾

九歳の忠順が通った安積艮斎の塾は、よその町にあったのではありません。この屋敷の長屋に開かれたものです。艮斎は寛政三年(1791)三月、陸奥国安積郡郡山の生まれ、父は安積国造神社の神主でした。貧窮時代に小栗家から受けた援助を感謝していたらしく、二本松藩に迎えられ、昌平黌の教授となってのちも屋敷内の塾を閉じず、万延元年(1860)三月に没するまで続けたといいます。のちに三菱を生んだ岩崎弥太郎が江戸に出て学んだのも、この塾でした。

→ 安積艮斎の私塾と英才たちの交遊

登城する馬の足音

屋敷からの登城は、駕籠ではなく乗馬でした。蜷川家の旧臣で森山休平という老人が、幼い蜷川新に語ったという話が残っています。

小栗上野介の登城は、普通人の如くに駕籠に依らずして、常に乗馬であつた。而して小栗上野介は登城せらるゝ折には、縦令家の中に潜みつゝありても「之れは小栗殿の登城也」と云ふ事が、其馬の足音にて能く判断し得られた。蓋し小栗上野介は、必ず駿馬に跨がり行くを例とし、其馬蹄の響きが、他の馬の夫れとは全く違つて居たからである

足音が違った理由は分かっています。当時の日本では馬に藁の沓を履かせていました。小栗は万延元年の渡米で蹄鉄を入手して持ち帰っており、日本で馬に蹄鉄をつけた最初が小栗だといわれます。馬具もすべて西洋馬具を用いたと伝わります。駿河台から大宮の普門院までは約九里ありますが、そこへもいつも乗馬で来たといいます。

→ 普門院 ― 小栗家始祖の菩提所 / 剣術・柔術・砲術の修行と小栗流

「石蔵」と呼ばれた日本最初の石造西洋館

世界を回って帰国した忠順は、自分の屋敷のなかに石造の洋館を建てました。ニューヨークやフィラデルフィアの建物を見て感心し、耐火家屋の設計図を持ち帰っていました。江戸を大火から守るにはこれしかない――実験的に建ててみたものです。ただし「西洋館」と言えば、攘夷論者や幕府閣僚が何をするか分からない。そこで表向きは「石蔵」と呼びました。

忠順の死後、屋敷は土佐出身の土方久元の所有となり、石蔵もその手に渡りました。のちに土方与志のものとなり、与志はこの中に「土方与志模型舞台研究会」を置きました。大正十三年(1924)、与志は私財を投じて小山内薫らとともに築地小劇場を創立します。日本の新劇は、小栗が耐火実験のために建てた石の蔵から出ています。

築地 ― 軍艦操練所跡

中央区築地六丁目二十番。安政四年(1857)、幕府が旗本や御家人を対象に軍艦教授所を創設した場所で、のちに軍艦操練所と改称されました。二度の火災に遭い、浜離宮恩賜庭園の地へ移っています。

この場所が、日本人による最初の世界一周の出発点です。『小栗日記』の冒頭に、その日が記されています。

干時万延元年申正月十八日。亜墨利加米利賢国江御使節御用其以前被仰付今日発足、九段坂より鎌倉川岸日本橋通築地操練所迄着、各々揃而午時飯食シ畢。其後大魚船ニ乗移り、米国ヨリノ迎船「ポウハタン」江乗移り直ニ碇ヲ解キ、横浜港江着シ碇ヲ下シ滞留ス

九段坂から鎌倉河岸、日本橋通りを経て築地の操練所へ。午(ひる)の飯を食べ終えてから大船に乗り移り、迎えのポーハタン号へ。総勢七十七人の船出です。

→ 品川出帆、総勢77人の船出 / 遣米使節への抜擢の背景

中央区観光協会:軍艦操練所跡

築地ホテル館跡

操練所跡とほとんど同じ場所、築地六丁目二十番先の晴海通りに面した一帯が築地ホテル館の跡です。明治元年(1868)開業、木造二階建て、鐘塔を持つ百二室のホテルでした。

この建物が小栗につながるのは、建て方のほうです。出資を募って事業を起こし、利益を配当する――いまでいう株式会社の方式で建てられた、日本人による最初の本格的な洋式ホテルでした。兵庫商社で試みた考え方が、ここにも使われています。開業した明治元年は、小栗が斬られた年にあたります。

→ 兵庫商社と築地ホテル館 ― 株式会社のはじまり

中央区観光協会:築地ホテル館跡

訪ねるとき

駿河台はJR御茶ノ水駅から歩いてまわれます。甲賀坂、明大通り、山の上ホテル、町名由来板。坂を下りて神田川の河岸に出れば、忠順が毎朝見ていた向きの景色です。築地は日比谷線の築地駅が最寄りで、操練所跡とホテル館跡は同じ一角にあります。

→ 権田村土着の願い出 / 雑司ヶ谷霊園の「小栗家累代之墓」 / 保善寺 ― 江戸の菩提寺

典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/『小栗日記』群馬県史料集第七巻/阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年/小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』/千代田区・中央区観光協会の公開資料。

→ ゆかりの地の一覧