PLACES

普門院 ― 小栗家始祖の菩提所

さいたま市大宮区。小栗家の始祖・忠政の菩提所であり、昭和の顕彰が集まった寺です。

さいたま市大宮区大成町、曹洞宗の大成山普門院です。小栗家の知行地のなかにあった寺で、始祖・又一忠政の墓があります。昭和に入ると海軍を中心とした顕彰がこの境内に集まり、いま残る石灯籠、招魂碑、碑前の錨と水雷には、それぞれ日付のある由来があります。

始祖・忠政の墓と、嘉永六年の石灯籠

小栗家は二千五百五十石の直参旗本で、忠政を始祖とし、上野介はその十二代です。忠政は十三歳で家康の小姓となり、元亀元年の姉川の合戦では十六歳で出陣、常に先陣を務めたことから家康が「又一」の名を与えました。以後これが当主の通称です。

忠政は元和二年九月に没し、遺言によって、知行所であった武州大成村の普門院に葬られ、寺は代々の菩提所と定められました。寺の開基は小栗家ではなく金子駿河守で、戦国の間に荒れた寺を復興したのが忠政です。その斡旋で朱印地十石が与えられました。

忠政の墓は、一段高いところに石垣で囲まれて残っています。石には小栗の文字が一つもありません。右に元和二年、左に九月十八日、下に施主敬白とあるだけです。寺では長く、これを開基・金子駿河守の墓と伝えてきました。そのため維新後も壊されずに済みました。石垣の下に並んでいた一族の墓二十数基は、逆賊の宣伝が及んだときに打ち倒されています。

墓前には一対の石灯籠があります。「献燈小栗忠順」と刻まれ、嘉永六年九月十八日の日付が入っています。満二十六歳の忠順が奉じたもので、字は自ら書いたものだと伝わります。九月十八日は忠政の祥月命日で、上野介はこの日には必ず乗馬で墓参し、墓前に下坐して拝したと古老が伝えています。

維新のあと、この灯籠は忠順の名が憚られて文字を摺りつぶされ、捨てられていました。後に発見されて据え直され、摺りつぶされながら「忠順」の文字はまだ読める――昭和十一年四月二十六日に訪ねた中里介山が、そう書き留めています。

→ 中里介山『大菩薩峠』に描かれた「再来」

招魂碑と、碑前の錨と水雷

境内に聳える「小栗上野介招魂碑」は、住職・阿部道山が檀家と総代の協力で建てたものです。除幕式は昭和九年十一月二十五日。碑面の八字は、海軍大将・黒井悌次郎の斡旋により徳川家達が染筆しました。裏面には、国際法学者・蜷川新の撰文による顕揚文が刻まれています。この日、総理大臣・海軍大臣・文部大臣・外務大臣が各代理を派し、岡田総理の祝辞は「かかる意に於て小栗上野介は我国海軍の祖なりと云ふも敢て過言にあらざるべし」と結ばれました。

碑の前には、海軍省から公式に下付された錨と浮漂水雷が据えられました。昭和十年十月二十一日、阿部道山は誰にも相談せず、海軍省へ「廃兵器無償下附ノ件出願」を提出します。海軍大臣は、小栗上野介は功臣であり海軍功労者であると断じ、横須賀鎮守府司令長官に訓令して碑前に錨と水雷各一個の下付を命じました。軍艦「榊」に使われたもので、山門には横須賀海軍工廠が寄進した大砲も置かれました。

昭和十年六月三十日には、岡田啓介首相と床次竹二郎逓信大臣が斎藤知事の案内で参拝しました。午前十時半に到着、展墓のあと本堂で追善法要が勤修され、式後に首相が「我が海軍の恩人」と題して講演しています。碑の両側の月桂樹は、この二人の手植えです。

→ 昭和の顕彰運動、招魂碑と胸像 / 総理が参拝した日 / 徳富蘇峰と岡田啓介 / 蜷川新と「仁義併存」の碑文

「首塚」と呼ばれてきたこと

昭和の一時期、与野と大宮の間には「小栗上野介首塚、普門院」と書いた標柱が立っていました。招魂碑の裏面、蜷川新の撰文には「山内法燈の伝ふる処によれば、上野介の首級は此処に埋葬された」とあり、忠政の墓のかたわらには首塚とされるものが建てられます。首級を運んだのは江戸屋敷の留守用人・武笠祐左衛門の養子銀介であると語られ、戦前は小栗の首級が大宮にあると思っている人がほとんどでした。

この説には有力な異論があります。首級は首実検のため館林に送られており、そこから権田へ取り戻された経緯が別に伝わります。銀介はこのとき十六歳で、又一に従って高崎にいたという指摘もあります。首塚そのものが昭和に造られたものだという見方も出されています。このサイトでは、どちらかに決めつけず両方の筋を並べて書いています。

本家の菩提寺は牛込通寺町の保善寺で、普門院は分家・小栗仁右衛門家が忠政の墓を守って菩提寺と定めた寺です。それでも本家との縁は幕末まで続き、『小栗日記』には普門院への香奠や歳暮、類焼の見舞が繰り返し現れます。

→ 武笠銀介 ― 主君の首を守ったとされる若者 / 館林、首級奪還の一夜 / 誉田三左衛門 / 保善寺 ― 江戸の菩提寺

慶応四年、二度の立ち寄り

慶応四年正月十九日。『小栗日記』に「大成村普門院へ祠堂金五拾両祐左衛門へ為持今朝出立致ス此節柄ニ付拝領御鎗并具足当分之内同寺へ預ヶ置申候」とあります。祠堂金五十両を用人に持たせて送り出し、あわせて拝領の鎗と具足を、当分のあいだ寺に預けた。「此節柄ニ付」――江戸がどうなるか分からない時節だから、という意味です。のちに普門院に小栗家累代の甲冑や信国の槍が残されていたのは、その一部です。

二月二十八日、駿河台の屋敷を引き払いました。日記の同日の条は、朝五時前に母堂・道子・鉞子を先に出立させ、続いて自分と又一が発足し、夕七半時過ぎに桶川宿に泊まったと記します。その日の記事に、道中がひとこと添えられています。

一途中大成村普門院江参詣致候

中山道を北へ向かう途中、大砲と長持を油紙で包んで車に乗せ、始祖の墓のある寺に立ち寄っています。青年期から禅を学んだ大猷和尚との訣別でもありました。先祖の繰位牌はこのとき和尚に託されます。和尚はその後、逆賊の宣伝が寺に及ぶなかで命を落としました。

→ 権田村土着の願い出 / 神田駿河台と築地 / 東善寺

訪ねるとき

境内は三町歩あり、墓地はいまも現役です。よそのお家の墓と地続きですので、通路の歩き方や写真の向きにご配慮ください。拝観の可否や時間は寺のご都合によります。

典拠:阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年/大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年/『小栗日記』群馬県史料集第七巻/小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』・顕彰会会誌『たつなみ』。

さいたま市公式:文化財紹介 大成館跡

→ ゆかりの地の一覧 / 後年の顕彰