曹洞宗諏訪山東善寺。群馬県高崎市倉渕町権田169。小栗上野介がここで暮らしたのは六十四日ですが、寺と小栗家の縁はそのずっと前からありました。父子と家臣の供養墓は参道の石段を上がったところ、本墓は裏山の諏訪山の頂近くです。
寛永十年に開かれた寺
寺の前身は、烏川をはさんだ対岸、川浦の字宮原にあった小さな庵だったと古老は伝えます。村の有志が相談して高台の現在地へ伽藍を建て、榛名町(旧久留馬村)高浜の長信寺第二世・円室存察大和尚を開山に迎えたのが寛永十年(1633)。円室存察は水沼村の関家(通称山六)の出身です。
焼失をまぬがれた朝課用の「回向双紙」――天保六年に没した十一世が書き残したもの――には、開基として洞庵首座と、高屋寺殿英山了傑居士の二つの法名が記されています。後者は小栗家五代・政信の法名です。権田が小栗家の所領になったのは宝永元年(1704)、寺の再建から七十二年あとですから、領地となる以前の人が開基に挙がっています。歴代の位牌のうち政信のものだけが「寺殿」号を与えられ、特に大きく、厨子に納められています。一本の位牌に政信と、若くして死んだ嫡男・信勝の法名が並べて刻まれています。五代政信から十二代忠順までの位牌は、いずれも現存します。
十二畳半の奥座敷
慶応四年二月二十八日に江戸を発ち、桶川・深谷・高崎と泊って、三月一日の夕刻七時過ぎに権田へ着きました。家族と家臣およそ三十名、家財十箱、小銃二十丁と弾薬を携えた一行です。仮住居にあてられたのは本堂東側の十二畳半の奥座敷、禅寺で「室中の間」と呼ぶ最上の部屋でした。
閏四月一日の朝、東山道総督府の追捕令状を持った高崎・安中・吉井三藩の代表八名が通されたのも、この座敷です。藩兵は門前に留め置かれました。
小栗の居室には、本村出身の南画家・法橋烏川が大きな唐獅子を描いた帯戸六枚が立てめぐらされていました。火災のとき運び出され、いまも残ります。
焼けて、建て直された
昭和十二年五月十日、権田上ノ久保の民家から出た火の飛び火で、本堂と庫裡が全焼しました。消防は山門の下にポンプを据えて大屋根に放水しましたが、水利が悪く、棟の縄が焼け切れて屋根は四方にずり落ちました。古文書類の多くはこのとき灰になり、小栗関係の遺品と寺の品々は運び出されました。
同年八月十日には庫裡の一室を仮本堂として本尊を安置。本堂の再建は昭和十六年九月に始まり、十八年九月十八日に上棟しました。途中で住職が急逝し、戦時下の物資と人手の不足で工期は延びて、入佛式を迎えたのは昭和二十三年三月十九日――全焼から十一年目でした。間口七間半、奥行五間、建坪四十坪。焼ける前の六十八坪(間口十間半、奥行六間半)の半分より少し大きい規模です。
庭木も大半が焼けましたが、参道を登りつめたところのコメツガと赤松の老木、前庭の老梅は、半焼しながら残りました。
境内にあるもの
墓所 忠順の遺骸、水沼河原で共に斬られた家臣三名、夫人らを会津まで護って戦死した権田の歩兵二名、用人・塚本真彦の母と子が眠ります。高崎で斬られ下斉田に葬られた養嗣子・又一と家臣三名の墓碑も建っています。家臣三名の墓碑は昭和四十三年の百年祭に合わせて建てられました。
胴塚(諏訪山頂) 達磨形の自然石の上部に小栗上野介源忠順と小栗又一源忠道、少し下って佐藤銀十郎と塚越富五郎、下段に護衛の歩兵たちの名が、中央に一段高く誉田三左衛門景稠の名が刻まれています。
胸像二基 大正十一年に横須賀へ建った朝倉文夫作の小栗像が、横須賀市の像の新造にともなって倉田村へ寄贈され、漆を塗り銅粉をかけてブロンズ風に仕上げて昭和二十九年五月六日に除幕されました。並ぶのは栗本鋤雲の胸像で、元海軍省建築局長の遺志による寄贈です。
→ 昭和の顕彰運動、招魂碑と胸像 / 栗本鋤雲仁義併存碑 昭和三十一年、墓畔の梅の古木の下に据えられた自然石。小栗個人の碑ではなく、家族を会津まで護り、のちに館林から父子の首級を取り戻した権田の人々の碑です。
→ 蜷川新と二つの碑 / 中島三左衛門遺品館 遣米使節のときに買い求めた懐中時計、唐獅子の帯戸、匿われた家に礼として置いていった青紫の花柄の西洋皿と象牙の櫛、塚本真彦夫人が持っていた備前兼光の脇差、真鍮製の迷子札(小判型、縦五センチ・横三センチ、表に「小栗氏」「塚本」)が並びます。
石仏 「ふろしき観音」、廃仏毀釈で首を落とされた石仏、手で触れて祈る小栗観音。三世の代の石仏・燈籠も数点残ります。
県命で郡村誌が編まれたとき、権田村誌の陵墓の項にはこう書かれました。「小栗上野介……官軍が捕らえて直ちに斬るその罪科を知らず、旧領主なるをもって東善寺に葬る」。
小栗まつり
処刑のあと権田へ乗り込んだ東山道鎮撫総督府の大音龍太郎が、弔慰金として二十五両を東善寺に寄せています。寺はその利子で毎年の法要を営み、明治十八年にこの金を預かっていた名主・佐藤家が破産して離村したあとは、檀徒有志の拠出で続けました。
昭和三十二年の九十年忌から、村が主体となって「小栗まつり」と呼ぶようになりました。現在の主催は一般社団法人小栗上野介顕彰会です。開催日は年によって変わります。
訪ねるとき
境内の墓所は群馬県指定史跡「小栗上野介忠順の墓」(昭和二十八年八月二十五日指定)です。
高崎駅から権田への直通バスはありません。群馬バスで室田まで行って乗り換えるか、高崎市のぐるりんバスを使います。タクシーなら高崎駅から約五十分、北陸新幹線の安中榛名駅からは約二十分(駅にバスはありません)。車は国道406号沿いで、駐車場があります。寺の近くにコンビニや食堂はありません。庫裡の入口にはスロープがあり、屋内用の車椅子は事前の連絡で用意されます。
典拠:小栗上野介顕彰会会誌『たつなみ』/小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』/『倉渕村誌』/高崎市の文化財情報・観光サイト。施設の情報は変わります。訪問前に公式ページでご確認ください。
→ ゆかりの地の一覧 / 水沼河原 / 観音山の屋敷跡と小高用水 / 保善寺 ― 江戸の菩提寺