高崎市倉渕町水沼。烏川の河原で、東善寺からは川に沿って三ノ倉の方へ下ります。高崎市指定史跡「小栗上野介忠順終焉の地」(昭和五十七年四月一日指定)。碑が一基立っているだけの場所ですが、その碑文のために、ここは長く「言ってはならないこと」を言っている場所でした。
当時の河原
いまの河川敷からは想像しにくいのですが、慶応四年の水沼河原は、真中に中洲があり、烏川がその両側を分かれて流れていました。三ノ倉側の瀬には太郎橋、水沼側の瀬には次郎橋がかかっていました。太郎橋の手前に小さな堤防があって柳が数株茂り、その付近が荒地の広い川原でした。
道路わきの荒地の中央に穴が掘られ、脇に莚が敷かれ、後手に縛られたまま小栗主従はその上に端座させられました。刻限は四ツ半時(午前十一時)。処刑を知らせる高札を見た近在の人々が、早朝から河原のまわりに集まっていました。首を曝した場所は、刑場から三十メートルほど離れたところです。
掘られたままの穴は、明治四十三年の水害まで残っていました。対岸の水沼村の名主・下平治右衛門の末子で、のちに烏渕村長となった下平餘文治が実見談を残しています。その夫人ひろ(明治四年生まれ)は、昭和三十二年、八十五歳で聞き書きに応じました。
ここで何が行われたかを最初に言葉にしたのは、高崎にいた小栗家の中間三名でした。牢屋敷の外に控えさせられていた三人は、翌日に許されて高崎の町へ出たところ、偶然に権田の人と出会い、主人の安否を尋ねます。返ってきた答えはこうでした。
上野介殿は昨六日朝四ッ半頃、三ノ倉宿水沼川原に於て何の取調べも審問もなく家来三人と斬首された上、所持していた諸道具及家来の所持していた品物まで、残らず荷造りして、何処かへ引取っていった
三人のうち一人がそのまま江戸駿河台の屋敷へ走り、閏四月十二日、分家の小栗仁右衛門から役所へ届出が出されました。
この河原については、特赦による処刑中止の早馬が走ってきたが間に合わなかったという言い伝えが、上室田の斎渡付近に残っています。『倉渕村誌』はこれを信じ難いとします。特赦が出ていたのなら、翌七日に高崎で斬られた又一主従は許されていたはずだからです。
草を刈っていた人
碑が建つまでのあいだ、この刑場跡の草を一年中刈り、花を植え、掃除をして守っていたのは水沼の関秀次郎という人でした。東善寺の開山・円室存察を出した関家の人で、刑場から約百メートル、首を曝した場所から三十メートルほどのところに家を建てて住んでいました。
昭和二、三年のころ、秀次郎は倉田村役場に市川元吉村長を訪ね、こう相談しています。
わしがずっと処刑場跡を守ってきましたが、何か記念の碑でも建てては頂けませんか
村長は「わしも何とかしなければと思っていたところだ。よく来て下さった」と応じ、倉田・烏渕両村の有志に呼びかけると約束しました。昭和六年に建碑協賛会が組織され、碑の除幕式は昭和七年五月五日に行われます。碑が建ったあとも、秀次郎は碑のまわりに松を植え、藤を植え、つつじを植えて手入れを続けました。
碑の前に立つ
刻まれているのは、国際法学者・蜷川新の撰文と揮毫による十八字です。
偉人小栗上野介
罪なくして此所に斬らる
昭和十六年の正月、大宮の普門院の住職だった阿部道山氏が、高崎からバスでここを訪ねた記録を残しています。三ノ倉の手前で左を見ると小坂があり、「小栗上野介斬首の跡」と書いた木標がかすかに読めた。二、三戸すぎると河原に新しい石の堤が築かれていて、それを背にして五、六尺の碑が立ち、子供がその碑にのぼって遊んでいた――。同乗の兵隊は、碑が二、三年前の大水で流され、前年に新しい堤を作る工事の際、土工が無疵のまま掘り出して元の場所に立てたのだと教えました。
阿部氏自身も、蜷川から「偉人小栗上野介罪なくして官軍に斬らる」と書いた一枚を贈られていました。「官軍に」と書いたその一枚は、石にはなりませんでした。
昭和七年に建った当初の場所は「水沼中川原」と記録されています。いま碑が立っているのは、流失した碑を昭和十二年五月に刑場の近くへ据え直した位置です。
訪ねるとき
所在は高崎市倉渕町水沼。高崎市の観光サイトと文化財情報に位置と写真が掲載されています。碑は河原に立っていますので、増水時は近づかないでください。
高崎市文化財情報「小栗上野介忠順終焉の地」 / 高崎市観光サイト「小栗上野介の関連史跡」
典拠:『倉渕村誌』/小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』・小栗上野介顕彰会会誌『たつなみ』/阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年/高崎市の文化財情報・観光サイト。施設の情報は変わります。訪問前に公式ページでご確認ください。