小栗家の家計簿には、「猿廻し」への支払いが繰り返し現れます。猿に芸をさせて家々を回る大道芸人で、新年の縁起物として江戸時代の武家・町家を問わず親しまれていました。
『小栗日記』(群馬県史料集第七巻)に収められた家計簿は、もと四分冊です。第一分冊は表紙に「量入制出簿」と記された新書版ほどの帳面で、嘉永三年(1850)正月から安政二年五月まで、小栗がまだ家督を継ぐ前の五年半分。そのあと二年半が欠け、第二から第四の分冊が、家督を継いだあとの安政五年正月から文久三年十二月までの六年分にあたります。各年ともはじめに年間の収入を書き、そのあとに月ごとの支出が続く形で、記述は淡々と同じ調子で流れていきます(この帳面が世に出るまで)。
そのうち年ごとに通して追える安政六年(1859)から文久三年(1863)までの五年分すべてに、猿廻しへの支出が記帳されています。書き方は一定ではなく、「猿廻し」「猿廻し代」「猿廻しへ」「猿廻しに遣ス」、そして「猿廻し初穂」と、回によって変わります。
年に三度の年もあった
回数も一度きりではありません。安政六年と安政七年(万延元年)は、それぞれ年に三度記帳されています。文久元年は二度、文久二年と三年は一度ずつ。正月の門付けを一度迎えて終わり、という性格のものではなかったことが分かります。
とりわけ目を引くのが万延元年です。この年、小栗は遣米使節の目付として、正月十八日に品川からポーハタン号に乗って出帆し、横浜へ帰り着いたのは九月二十八日――八ヶ月あまり、日本を留守にしていました。それでもこの年の帳面は、猿廻しへの支払いを例年と変わらず三度記しています。当主が地球の反対側にいるあいだも、駿河台の屋敷では一年の決まりごとが同じ調子で回っていました。
安政六年の一度は、同じ月の帳面に「初午入用」が並んで記されています。初午は二月最初の午の日に行われる稲荷の祭りです。猿廻しが正月だけの風物詩ではなく、年のうちの祭礼のめぐりの中に組み込まれていたことがうかがえます。
「初穂」と書かれていること
文久三年の記帳が「猿廻し初穂」となっている点は見逃せません。初穂料は神仏への供え物に対する謝礼の言い方で、芸を見せてもらった駄賃や投げ銭とは扱いが違います。小栗家では、猿廻しを芸人としてではなく、祈祷に来た者として迎えていたのです。
同じ帳面には、ほかにも初穂の支出が並んでいます。戸隠山御初穂、船橋御殿御初穂、教光坊御初穂、そして稲荷祭入用や「稲荷様太鼓はり替代」。牛込の菩提寺・保善寺への香典や経料、大宮の普門院への香奠も同じ帳面に出てきます。猿廻しへの支払いは、こうした一年の祈祷・祭礼にかかる費用の一項目として、同じ調子で書き留められていました。
金額の書き方は「一金弐朱」「一金壱分」といった調子です。当時の勘定は一両=四分、一分=四朱、一朱=四百文。嘉永六年の帳面を例にとると、小栗自身の手元金が月に金二分、妻の綾が金一分という水準ですから、初穂や祝儀に出される一朱・二朱という額は、暮らしの中では小さな、しかし毎年欠かさず出ていく類の支出でした。
馬を飼う家だった
猿廻しは、猿が馬の守り神とされたことから、武家では厩の安全を祈る意味を込めて迎え入れられることが多かったといわれます。小栗家の家計簿は、その説明とよく符合します。
帳面には「馬入用」がたびたび現れ、「馬薬代」も繰り返し記されています。「馬入用別当へ」とあるのは、馬の世話役への支払いでしょう。「馬道具品々」という記載もあります。さらに「建馬代并稽古場入用」「建馬代並稽古場出銀」といった項目が何度も出てきます。稽古場のほうは相手の名が書き分けられており、依田・田付・窪田・千葉といった名が並びます。武芸の稽古に通うための「出銀」と、馬にかかる費用とが、同じ帳面に年々並んでいたわけです。
のちに小栗は歩兵奉行・陸軍奉行として洋式の三兵制度を進め、馬匹改良のためにフランスからアラビア馬を取り寄せます。慶応四年、江戸を引き払って権田村へ下るとき、小栗はそのアラビア馬にまたがって道中を進んだと伝わります。その二十年近く前から、この家の帳面には馬の薬代と、厩を守る猿廻しへの初穂が、並んで書き込まれていました。
使節団の逸話や幕政改革といった大きな出来事の陰で、家の者は毎年、猿廻しに初穂を渡し、馬に薬を与え、稲荷の太鼓を張り替えていました。家計簿という地味な帳面だからこそ残った、暮らしの手触りです。
典拠:群馬県史料集第七巻『小栗日記』(小栗家家計簿)/大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年/小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』・顕彰会会誌『たつなみ』