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家計簿に見るうなぎ好き

給料日のごちそうは、うなぎだったようです。

『小栗日記』(群馬県史料集第七巻)には、日記とあわせて小栗家の家計簿が収められています。「手元雑用」「お綾へ」といった調子で淡々と続く出納の列を眺めていくと、ある品名が何度も顔を出します。うなぎです。

なぜ家計簿が残ったのか

そもそもこの家計簿は、残らないはずのものでした。慶応四年閏四月六日に小栗主従が烏川河畔で斬られたあと、巡察使・大音竜太郎は上野国渋川宿の問屋後藤八郎右衛門に遺品の後始末を命じます。八郎右衛門は、そのうち紛失や焼却の恐れがある日記と家計簿をひそかに持ち帰り、官軍や周囲の目をはばかって秘匿したまま、子孫にも告げずに世を去りました。

これが世に出たのは昭和二十七年九月。文学者・本多夏彦氏が後藤家で史料調査を進めていた折に、日記二冊と家計簿四冊、八郎右衛門の手記などが発見されたのです。家計簿の第一分冊は縦十六センチ、横十二・一センチ、九十五枚綴りの小冊子で、表紙には「量入制出簿」と書かれていました。収めるのは嘉永三年(一八五〇)一月から安政二年五月まで。残る三冊は、家督を継いだあとの安政五年一月から文久三年十二月までの六年分です。

御切米の日のうなぎ

幕臣の給与は米で支給され、その支給日を「御切米取り」、換金と祝いの行事を「御切米開き(ひらき)」といいました。家計簿には、この日にうなぎを取った記録が繰り返し出てきます。

  • 「御切米ひらき うなぎ」

  • 「うなぎ代 五月御切米祝」

  • 「御切米開 鰻鯉代」

  • 「如例年御馳走 うなぎ代」

「如例年」――例年のとおり、と書かれているのが目を引きます。思いつきの贅沢ではなく、年中行事として定着していたわけです。御切米取りの日に御馳走をして祝うのは、幕臣の習慣でした。

顕彰会の会誌『たつなみ』に載った河邊和夫氏の「嘉永六年の家計簿」は、この年の出納を現代の円に換算して読み解いています。一文を十五円と仮定すると、一朱が六千円、一分が二万四千円、一両が九万六千円。この物差しで見ると、嘉永六年二月十四日、春の御切米支給日に一同へ振る舞われたうなぎは一万八千円でした。翌三月には改めて恒例の御切米開きを催し、一万二千円を支給しています。

同じ三月には、すしをひと重ね九千七百五十円で取り寄せた記録もあります。この日は綾の実家である神田明神下の林田藩上屋敷から来客があり、料理代に十万八千円を支出していますから、すしは進物用でした。河邊氏は、小栗の家計簿には祝い事や来客の際の御馳走として、うなぎとすしがしばしば登場するとまとめています。

もてなしと、贈り物として

実際、うなぎの登場する場面は給料日だけではありません。家計簿の記述を拾うと、用途がはっきり書き分けられています。

  • 「山城守殿入来ニ付 うなぎ代」――客が来たので

  • 「稲垣招候節鰻鯉代」――人を招いた折に

  • 「客入用うなぎ代」「ご馳走うなぎ代」

  • 「村松へ進物うなぎ代」――贈り物として

  • 「水野滝川へ遣ス鰻代」「うなぎ折詰 頂田甚兵衛へ」――人に届けるための折詰

  • 「新潟江 鰻鯉料 差上候」――新潟へ差し上げた鰻鯉料

つまり小栗家にとってうなぎは、家族で食べる惣菜というより、祝いの席の膳、客をもてなす一品、そして人へ贈る折詰という位置にありました。誰に、どういう名目で出したのかまで一行ごとに書き分けられているところに、この家計簿の几帳面さが出ています。

嘉永六年といえば、六月三日に黒船が浦賀沖へ現れた年です。小栗は同じ年の七月に御進物番を仰せつけられ、西丸から本丸詰めとなりました。ただ、家計簿の側は時代の鼓動をほとんど伝えません。唯一それらしいのは六月の最後の行に突然あらわれる「三十目鉄砲出来残金渡す。金五両二分」という記述で、河邊氏の換算では五十二万八千円にあたります。国が揺れた月にも、切米と、衣類と、うなぎの列は変わらず続いていました。

典拠:『小栗日記』群馬県史料集第七巻/河邊和夫「嘉永六年の家計簿」(小栗上野介顕彰会会誌『たつなみ』)

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