嘉永六年(1853)六月に浦賀へ来航し、日本の鎖国を終わらせたマシュー・カルブレイス・ペリー提督は、万延元年(1860)に遣米使節が渡米したときには、すでにこの世を去っていました。安政五年(1858)の正月、日米修好通商条約の条文がすべて議了した直後に、ニューヨークで静かに世を去っています。その死の報せは、ハリスが下田へ戻る前日に届いたものでした。それでも使節団の一行は、ペリーが暮らした家をわざわざ訪ねたと伝わっています。
日本から連れ帰られた犬
随行員が残した航海日記には、この訪問にまつわる逸話が記されているといいます。ペリーが日本から持ち帰った犬が、屋敷を訪れた使節団の一行を見て、たいそう喜んだというのです。ペリーが日本滞在中に犬を手に入れ、帰国の際に連れ帰ったこと自体は、当時としても珍しい話ではありません。ただ、その犬が数年後、同じ日本からやってきた別の一行を見てはしゃいだという場面に、随行員が特に筆を割いたところに、この逸話の面白さがあります。
ペリーの船で、ペリーの部下に迎えられる
この訪問を、たまたまの寄り道と見るのは当たっていません。万延元年の遣米使節は、行く先々でペリーと再会するような旅だったからです。
そもそも一行を太平洋の向こうへ運んだ軍艦ポーハタン号が、嘉永六年にペリーが乗って日本へやってきた、その船でした。長さ二百五十フィート、幅四十五フィート、大砲十一門、二千四百十五トン。乗組員四百三十一名に使節一行を加えて、船内は五百十二名になりました。使節のために大砲四門を取り外し、その跡に左右の部屋をつくっています。小栗の部屋はコモドール(総督)と船将の部屋に続く位置にあり、その一段下の左右に正使・新見豊前守と副使・村垣淡路守の部屋が置かれました。開国を迫った船が、七年後には開国した国の使節を運んでいたわけです。
ワシントンに到着した日も同じでした。一行が着船したのは街はずれの海軍工廠で、その様子を副使・村垣淡路守は『航海日記』にこう書き留めています。
陸には男女群集して家のうち外屋根までも登りて見物す、やがてをのれ等にジュポント始め各誘引て陸にあがればコモドール、ブカナン出迎、これもペルリ渡來の時、船將にて來りし人なり。其他五六人出て挨拶せしが、見物人充滿して道もなきまでなり、そが中に新聞紙屋とて、そこら馳步行、何か書きしるすさまなり
上陸して最初に出迎えたブカナン(ビュキャナン)も、ペリーが日本へ来たときに船将として同行した人物でした。村垣はそれをわざわざ書き留めています。日本側にとって、ペリーとともに来た顔ぶれは、すでに「知っている人々」だったのです。
ちなみにこの日記は、群衆のなかを走り回って何か書きつけている「新聞紙屋」のことも記しています。あとで聞けば、その日のうちに新聞を刷り立てて売り出すのだという。向かいの二階には「写真鏡」が据えられ、上陸の様子を撮っていました。現在日本に伝わる渡米時の小栗の写真は、このときの記念撮影です。新聞という大衆報道の仕組みに小栗が目をつけたのも、この日の光景がきっかけだったとみられています。
使節団が各地で見聞きした事柄の多くは、造船所や工廠、造幣局といった公的な施設をめぐるものでした。そのなかにあって、すでに主を亡くした家を訪ね、遺された犬と対面するという私的な場面が航海日記に書き留められているのは、記録者の関心の幅の広さを示しています。
典拠:阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年(村垣淡路守『航海日記』を引く)/大坪指方・穂積驚『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会、昭和五十年
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